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主日共同の礼拝説教

神のめぐみ

2017年7月9日夕礼拝
和田一郎伝道師
マラキ書1章11節
コロサイの信徒への手紙1章6~8節

Ⅰ.真理の言葉

今日の聖書箇所は、前回の説教で話しましたパウロが「神へ感謝する」と言っている内容が続いています。3-5節のところでパウロは信仰生活の基本となる「信仰」と「希望」と「愛」について述べました。そしてそれらはお互いに関連をもっていて、中でも「希望」というのは福音を通して知ったのだと語りました。「福音」というのは良い知らせという意味ですが、この良い知らせである「福音」を、パウロは真理の言葉と言いました。
真理というのは憶測でも、独断でもありません。わたしたち人類全ての者に当てはまるもので時代や国の違いに左右されないものです。ですから真理というものはいくつもある、というものでもありません。ある意味で真理は排他性をもっていて「何々であって、それ以外のなにものでもない」といった要素があるのです。パウロがここで「福音は真理の言葉だ」という時、当時広がっていたグノーシス主義という人間の知識を尊重する思想を意識していたと思います。しかし福音だけが真理なのです。人間の作ったあらゆる思想と、キリストによる福音とを分離しているのです。
続いてパウロは「福音」が世界的なものであると言っています。「福音」というのは、単に一つの民族、一つの国家、一つの状況にある人たちだけに通用する、というものではありません。真理は状況や時代に左右されるものではありません。当時、コロサイ教会のあった地方には民族信仰があったと言われています。御使いを礼拝したりする異教思想があったようです。もちろん今はそのような間違った信仰を持っている人はいないようですから当時に限って、一地方にしか通用しない民族信仰にすぎなかったのです。それに対して福音は当時の世界に広がりつつある、とパウロは言うのです。
しかし、広いローマ帝国の中でキリスト教会はまだまだ小さな存在でした。あちこちの町で教会が増えつつありましたが、社会に影響を与える存在になるのはもっと後のことです。ですがパウロはこの福音が世界性をもっていることに確信をもっていました。民族信仰や新興宗教は、大きくなっていく中で何回も変化したり、分離したりして最初のものからすっかり変わってしまうものですが、キリストの福音は最初から世界性をもっていました。どこの国にいっても通用する真理です。キリストの福音がパウロが宣教を始めたダマスコの出来事から30年ほど経っていました。30年というのは短いようにも長いようにも思えますが、その間、どこの国に広がっても揺るがない世界性を持っていることが、実証されているとパウロは言うのです。

Ⅱ.確信している事実

キリストの福音はユダヤ人だけに与えられた民族宗教などではありません。当時の世界のあらゆる民族、あらゆる階層の人々に通じる普遍性をもっていました。それをパウロは6節のところで間違いなく事実であると、確信をもって語っているのです。
それは「実を結んで成長している」と。ここでは二つのことを取り上げていると思います。「実を結んでいる」ことと、それが「成長している」ことです。「実を結ぶ」ということは人間の内面的なことですし、「成長している」のは外面的な意味です。
内面的な意味でキリストの福音が実を結んでいる。植物の種が良い地面に落ちて、育って実を結んで成長しているように、キリストの福音は実を結んでいる。これはもともと神様に背いていた人達が、キリストを主と信じた時、父なる神様の子とされた、親と子のような親しい関係へとされました。続いて私たちの中に住まわれる聖霊が御言葉を用いて人格的にも神に似た者へと成長させてくださいます。こうしてキリスト者は、御霊の実を結ぶようになります。つまり愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテヤ書5章22節)。これは内面的なことですが、それにととどまらず、外面的にもあらわれてくることです。「成長している」という言葉は、福音を信じる人たちの人数が増えているということですし、広い地域に広がっているという意味でもあります。この二つのこと、主にある内面的なことと外面的なことは、切っても切れないものです。内面的な人間の変革というものは周囲の人に影響を及ばさずにはおかれないことです。そしてその事は初代教会でもそうでした。ペンテコステの出来事の時にペトロが説教をすると、その日に3千人の人に影響を与えて教会に加わりました。彼らは「熱心」になったと表現されていますが、内面的に変化が成されたのです。

Ⅲ.宣べ伝える人

このキリストの福音という真理は、誰かが宣べ伝えることによって伝達されることです。パウロはローマの信徒に向けた手紙でこう言ってます。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ書10章14節)
ここにあるように、私たちも教会に来るようになって洗礼を受けるようになったのは、誰かが自分に関わってくれたからです。その誰かがいなかったら信仰をもっていなかったという人がいると思います。ではコロサイの教会に福音を伝えたのはだれだたでしょうか? それはエパフラスという人です。パウロ自身は一度もコロサイの町に行ったことがありませんでしたから、この手紙を読んでいる人達と交流をもっていなかったようです。
この町に福音を伝えて、人々にキリストの真理を教え広めたのはエパフラスです。パウロはこの手紙を書く5~6年前に、エフェソで3年ほど滞在して伝道をしていました。その頃エパフラスが忠実な伝道者として用いられて、コロサイに行き宣べ伝えたのです。そうしてコロサイ教会が生れました。それでパウロは「あなたがたは、この福音を、わたしたちと共に仕えている仲間、愛するエパフラスから学びました。」と書き記しているのです。
パウロは「わたしたちと共に仕えている愛する仲間」であるし「彼は、あなたがたのためにキリストに忠実に仕える者」だと言います。これはエパフラスが伝えた福音が、正しい真理であるということ、真の伝道者であると太鼓判を押しています。それは「わたしたちと共に仕えている愛する仲間」という表現の中にあります。「仕えている」というのは、誰に仕えているのか?というと、言うまでもなく「キリストに仕えている者」ということです。ですからキリストの意思にしたがって動き、キリストの教えにしたがって判断することです。パウロは自分をそのような者として自認していましたが、エパフラスもまた同様だと言ってコロサイ教会の信徒たちに伝えています。これは逆に言えば、コロサイ教会にも近寄っていた、異端の宗教者のことを、キリストに仕えるものではないと暗に浮彫らせて、示していたのかもしれません。パウロはエパフラスへの信頼と愛を十分に表しておりますし、エパフラスはパウロの信任を受けていました。それは自分はコロサイに行ったことはないが、コロサイの町へ宣教の働きを託したエパフラスがキリストの福音をしっかりと伝えていた。

Ⅳ.まとめ

パウロはこの手紙の冒頭のところで、コロサイの人々が信仰と愛に満ちていたことを感謝していましたが、ここでも「“霊”に基づく、あなたがたの愛を知らせてくれた人です。」と言って文章を結んでいます。霊に基づくのですから、ただ単に優しい人たちと言っているのではないのです。聖霊に導かれた実としての愛ですから「いつも喜び、平和を成し、寛容であること、人に親切で、善意をもって接して、誠実に生きること、柔和な態度で、節制ある生活を生きる人です。これらの様子は歯を食いしばって忍耐強くなればできることではありません。強い意志を奮い立たせれば、喜んで柔和な態度がとれる、というものではありません。それらは自分の意思ではなく、あくまでも聖霊の力によって結ばれる、果物のような実なのです。ちょうど果樹に実がなるように、内側から外側へと自然なかたちで実っていくものなのです。