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主日共同の礼拝説教

安息日の主

2017年7月16日
松本雅弘牧師
ホセア書6章1~6節
マタイによる福音書12章1~8節

Ⅰ.ファリサイ派の人々のこだわり

私たち人間は時に、神に勝って宗教的になるという言葉があります。その代表者こそファリサイ派の人々でした。
マタイによる福音書は12章に入って、ファリサイ派の人々と主イエスとの対立は決定的なものとなります。彼らはイエスの殺害計画を立て始めるのです。彼らの目から見てイエスさまは、全く世俗的な存在と映ったのです。それ故に、完璧な仕方でイエスさまを殺そうと計画していきます。

Ⅱ.事の発端

事の発端は弟子たちのとった行動にありました。空腹を覚えた弟子たちが麦畑で麦の穂を摘んで食べてしまいました。その日が安息日だったのです。ファリサイ派の人々は、それを見逃しませんでした。「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言って、主イエスを問いただしていくのです。

Ⅲ.安息日の主なるイエス

ファリサイ派の人々の、こんな言いがかりのようなことにむきになっていく必要なんかないのではないかと思うようなできごとです。ところが、イエスさまは彼らの問いかけに対して、一気にヒートアップし、激しく反論されました。
食べ物もなく飢えるダビデに「何か、パン五個でも手もとにありませんか」(サムエル記上21:4)と乞われた祭司アヒメレクが、神殿に供えられているパンをダビデに差し出したではないかと、サムエル記上21章に記されている話に触れながら、イエスさまは、ファリサイ派の人々に迫ります。さらに、畳みかけるようにして、「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか」(マタイ12:5)と言って、神殿の務めを果たす祭司が、安息日に働くのは当然ではないか、と反論するのです。
さらに、イエスさまは「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある」と、決定的なことを言われました。ある神学者は、「この言葉は、新約聖書の中で語られている、最も大きな意味を持つ言葉の一つだ」と語っていました。
神殿とは、神が臨在される場所、神の住まいです。この時イエスさまは、自分こそが神殿を超えた存在、つまり神そのものなのだと主張されたのです。言葉を変えて言うならば、「このわたしが見えないのか、わたしにおける神が見えないのか」と、ファリサイ派の人々に向かって痛烈な問いかけをなさったのです。そして、「人の子は安息日の主なのである」と言い切っておられます。つまり「わたしこそ、安息日の主、すなわち、真に安息を与える者である」という主張です。これは大変な宣言です。
ところで、ここで一つ、心に留めたい点があります。それは冒頭に「そのころ」と出て来る、時を定めた言葉です。
普通「そのころ」と言えば、その前後の時期を含めた、「その辺りの時期に」というようなニュアンスのこととして受けとめるでしょう。ところが、原文では、「そのころ」、「その辺りの時期に」というような曖昧な表現ではなく、「その時」という意味であり、明確な時を示す言葉が使われています。ですから、今日の12章に出て来る話は、11章の出来事に続いて起こったことだということです。
イエスさまは、全く理解のない人々に囲まれ、そこでなお、父なる神さまの御心を一生懸命に読み取ろうと苦労し、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」(11:25)と賛美を捧げた後、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11:28-30)と語られたのです。
疲れ果て、なお重荷を負ってあえいでいる人々に、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのもとに来なさい。わたしが休ませてあげるから」と言っておられるのです。主イエスご自身が、この「大いなる安息」を宣言されたのです。
まさに「その時」に起こったのが、今日の12章に出て来る話なのです。

Ⅳ.「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。

このことを踏まえて、今日の箇所を見ていきます。ここで主イエスは、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と、預言者ホセアの言葉を引用し、「この言葉の意味を知っているのか、分かっているのか」と問うておられます。
ここでイエスさまが問いかけておられること、それは、いけにえを捧げるという宗教儀式だけにうつつを抜かすよりも、人を愛する業に励む方がどれだけよいだろう、ということではありません。ファリサイ派の人々に向かって、神殿の中でいけにえを捧げるような宗教儀式や行事に時間を取られるのではなく、もっと立派な人間になるために、そこから出て行って憐れみの業に励んだらどうか、とチャレンジされたのでもないのです。
そしてまた、イエスさまが弁護している弟子たちが、愛の業に励んでいたということでもありません。彼らは、そんなことを何ひとつしていないのです。むしろ、彼らがしていたことはと言えば、麦の穂をつまんでそれを食べたことだけです。もうちょっと我慢すれば食事にありつけたでしょうに、子どものようにつまみ食いをしてしまったのでした。
ここで主が願っておられること、それは、神殿よりも偉大な存在である主イエスの中にある神の憐れみに触れて欲しい。いや、「神そのもの」と呼んでもよい程の憐れみに気づいて欲しいということです。
人は、その神さまの憐れみの中にあって初めて、本当の憩いを味わうことができるのです。そして、人間として造られ、生かされていることを喜ぶことができるのです。イエスさまは、その恵みを示そうとなさったのではないでしょうか。
主イエスさまは、私たち1人ひとりに向かって、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と、憐れみをもって「大いなる安息」へと招いておられます。私たちに問われていること、それはその招きに従って主イエスの許に行くかどうか、です。
先週、ヘンリ・ナウエンが書いた、『イエスの御名で―聖書的リーダーシップを求めて』という本を読み、その一文に目が留まりました。
「『年を重ねて、私はよりイエスに近づいただろうか?』
司祭になって25年になっていましたが、依然として、祈りにおいて貧しく、やや人々から孤立した生活を送り、自分をせきたてる目先の問題にすっかり心奪われていることに気づきました。人は、私が申しぶんなくやっている、と言ってくれました。しかし、心の内の何かが、私の築いてきた成功は、自らの魂を危機に陥れている、とささやくのです。私は、自問しました。観想的な祈りの不足、孤独な状態、緊急と思えることに次から次へと引きずられるのは、私の内で、御霊が徐々に消えつつある徴(しるし)ではないだろうか、と。」
ナウエンは、この後、大学での仕事を離れ、これまでの自分の学者としての実績や貢献について全く知らない人たちへの働きに赴きました。彼らは字を読むことができない人々でした。ですから、当然、ナウエンの著作を手にしたこともないのです。
彼らを相手に、まさに、ナウエンは「裸にされた自分というものに向き合う」経験をしていくのです。そうした中で、自分の真のアイデンティティーを再発見せざるを得ないところへと追い込まれていきました。
ナウエンが経験した、この「裸にされた自分というものに向き合う」こと、それは、私たちにとって本当に難しいことです。
そして、そうできなかった代表が今日、ここに登場するファリサイ派の人々だったのではないでしょうか。
彼らの信仰は、何か出来る自分、何かを示せる自分、何かを証明できる自分、何かを築ける自分を、神さまの前に差し出して、神さまに認めていただくこと。それによって神の好意を獲得することにありました。
しかし、イエスさまの福音、イエスさまの招きはその逆です。
心の破れや傷、弱さを覆い隠して生きる自分であること。そして、弱くて傷つきやすく、ただ愛を受けるだけの自分であることを、神さまの前に認めることです。
神さまは、私たちが何かよい行いをし、また何かを成し遂げたから、そのことの故に愛してくださるのではないのです。ただ、そのご愛のうちに私たちを創造し、主によって贖われたが故に愛してくださるのです。
主イエスさまは、父なる神さまが約束してくださった安息を、より確かな仕方で私たちに示してくださいました。
ですから、私たちは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれるイエスさまの招きに応えて、イエスさまの懐に飛び込むこと、そのことこそ、私たちにとっての大いなる幸いであり、また、主イエスご自身が、一番願っておられることなのです。
お祈りします。