2017年7月23日
松本雅弘牧師
イザヤ書42章1~4節
マタイによる福音書12章9~21節
Ⅰ.片手の萎えた人
麦畑での安息日論争に区切りをつけた主イエスは、弟子たちと一緒に会堂にお入りになりました。するとそこに片手の萎えた人がいました。同じ出来事を記したルカは、その手が「右手」だったと報告しています。
「右の手」とは「利き手」でしょう。糧を得るために使う手です。物を掴み、物を作り、生活を支えていく手が「右手」です。その「働き者」の「右手」が萎えて動かないのです。
イエスさまが会堂にお入りになった時、その人が信仰の仲間たちと礼拝を求めて会堂の中にいました。そこに、イエスを訴えようと思っていたファリサイ派の人々もおりました。
そして彼らは、イエスさまに向かって「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」(10節)と尋ねたのです。ファリサイ派とは、「律法に違反してはいけません」と教えていた人たちです。彼らは、主イエスを訴える口実を見つけようと、イエスさまが人々の中で、律法に違反する言動をなさる、そのことを期待し、目を光らせていたのです。
一方、片手の萎えた人は生きることに必死だったと思います。不自由な右手、生活を支えることができない悩みを常に感じながらの生活でした。その萎えた右手の存在が、彼の体全体を、さらに心までも萎えさせ、常にマイナスに作用していたにちがいありません。
イエスさまを訴えようと隙を狙っていたファリサイ派の人々は、この人の苦しみ、悩み、将来への不安などには寄り添おうともせず、まるで釣竿の先にぶら下がった餌を見るようにして、イエスさまが、いつ、その餌に喰いつくか、いつ、その人にかかわりを持つかと、イエスさまが律法違反を犯す、その瞬間を待っていたのです。
Ⅱ.安息日規定
イエスさまは彼らの魂胆を見破り、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか。」という質問に対して、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて」(11節)と語り出されました。
百匹の内の一匹ではありません。その人には、羊一匹しかいませんでした。百匹の羊を持っていた人の話より、もっと厳しい状況です。掛け替えのない羊です。1匹しかいない大切なその羊が穴に落ち、命の危険にさらされたとすれば、たとえ、その日が安息日であろうと、羊を助け出すのは当然ではないか、とイエスさまは語ります。そして、イエスさまは、手の萎えたこの人の悩みに心を留めて御覧になり、その手をいやすことができるのならば、今ここでいやすこと、そのことこそ、安息日にふさわしいではないか、と彼らに迫っておられるのです。
世界を創造された神さまが、人間を創られたのは第6の日でした。この6日目に創られた人間が、初めて迎える新しい日が第7の日、すなわち安息日です。ある神学者は、「それ故に人間は安息を味わうために創造されている」と語ります。
イエスさまの時代のユダヤ教は、本来の安息の意味を忘れ、「なぜ休むのか」を問うことをせず、「『休まなければならない』という命令のために休む」と理解をし、その結果として「してはいけない労働とは何か」、「してはいけない仕事とは何か」と考えていきました。つまり、目的と手段とが入れ代わってしまっていたのです。
このように、矛盾を引き起こしているファリサイ派の人々に対して、この時のイエスさまは、敢えて彼らの挑発に乗るようにして、この人の手をいやされたのです。それは、主イエスこそが「安息日の主」であることを表わすためでもありました。
Ⅲ.イエス殺害を企てるファリサイ派の人々
この結果、ファリサイ派の人々は、「どのようにしてイエスを殺そうか」と相談をし始めたのです。このことを知って、イエスさまはそこを立ち去られました。そして、ご自分の後に従ってくる大勢の人々に対して、イエスさまは、まさに1匹の羊を探し求める羊飼いのようにして、1人ひとりの病気をいやされ、同時に、ご自分のことを言いふらさないようにと、戒められたのです。
なぜ言いふらさないように、と戒められたのでしょう。マタイによる福音書においては、すでに重い皮膚病の人をいやされた8章4節においても、二人の盲人が見えるようなった9章30節においても、イエスさまは「だれにも話さないように」と、同じように指示を与えておられます。
イエスさまは、この後にご自分がたどられる道、死に向かわれることについてご存知でした。その上で、しかし、まだその時ではない、と理解しておられたのです。何故なら、イエスさまには、まだなすべきこと、語るべきことがたくさんあったからです。
病人のいやしとは、ある人の言葉を使えば、「その人とイエスさまとの間に通った愛のしるしだ」と言われます。決して、宣教の道具、人集めの手段ではなかったのです。
この福音書を書いたマタイは、このようなイエス・キリストの姿を見て、イザヤ書42章1~4節に出て来る預言の言葉の成就と理解していったようです。
そこで12章8節以下に、マタイ独特の自由な引用の仕方で、そしてまた、マタイ自身の解釈を加えながら、イザヤ書42章を引用しています。
「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」と。
「わたしの選んだ僕」、「わたしの心に適った愛する者」、「わたしの霊を授けた、この僕」と、ここに登場するこの人は、これまでの預言者とは違って大声で叫ぶことをしません。そして、不思議な愛の業を行っても、それを「言いふらすな」と言うのです。
そのようにして彼は、1人ひとりの魂を救うように人々と接していくのです。
Ⅳ.イザヤの預言の成就としてのイエス・キリストの出現
「この僕」といわれる彼は、「正義を知らせる」 (12:18)ために来た、とあります。この正義は一般的に考えられている正義とは違います。
正義という時、私たちは、普通、悪を打ち破り、力をもって勝ち取る正義、声を大にして戦い、獲得する正義を考えます。そのためには多少の犠牲を伴うことはやむを得ない、と思うのではないでしょうか。けれでも、人間の歴史を、また私たちの社会を見ていく時、そのような犠牲は往々にして、社会で一番弱い立場にある人の上に降りかかってしまうものです。
今回、アメリカに行かせていただいた時に、「ベテラン」という言葉を何度か耳にしました。その道で経験を重ねた人のことを「ベテラン」と呼びますが、もう一方で、退役軍人を指す時にも、この言葉を使うのです。
今のアメリカ社会の問題の1つに、ベトナム戦争、イラク戦争から戻った元兵士たち、また彼らベテランの社会復帰の問題、そして自死の問題があるそうです。
あのイラク戦争の時、無防備な市民、特に子どもたちが犠牲になりました。そして、実際に前線に赴いたアメリカの兵士、その多くがアメリカ社会におけるマイノリティーの立場の人だったそうです。ある人の言葉を使えば、「使命感でというよりは、何がしかの見返りがあるから、辛抱して兵役についた」兵士が多かったのが事実なのです。
マタイが記している預言者イザヤの言葉に注目しましょう。
18節と21節に2回、「異邦人」という言葉が出て来ます。「異邦人」とはユダヤ人から見れば、外国人、仲間ではない人を指す言葉です。信仰も価値観も、生き方も違う人々です。
「彼は異邦人に正義を知らせる」(18節)とあります。正義という時に、こちらにとっては「正義」であっても、相手にとっては「価値観の押し付け」だったりすることがあります。
ところが、この「わたしの選んだ僕」は、そうした異邦人にも分かる正義を知らせる、というのです。それは強制することによらない正義です。
そのことを預言者イザヤは、「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と表現しました。
つまり、そのような仕方で、「勝利に導く」正義でなければならない。そうした正義であって初めて、「異邦人は彼の名に望みをかける」ことができるからです。
私たちの主イエス・キリストというお方は、傷ついた葦を折り、消えかかっている灯心を吹き消してしまうようにして、正義をごり押しするお方ではありません。
逆に、そうした折れそうで消えそうな「弱さ」を一身に引き受けてくださり、ご自分が犠牲になることを選び取られたお方です。それがゴルゴタの十字架です。
神さまは、ご自分の愛する独り子を、ゴルゴタの道へと歩ませる決断をなさり、そのイエスを指して、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。」(18節)と言われたのです。ある人の表現を使えば、「本当に大きな神さまの決断」でした。
私たちは、この「大いなる愛の決断」によって生かされ、守られているのです。
お祈りします。