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主日共同の礼拝説教

神を知って生きる

2017年7月23日夕礼拝

和田一郎伝道師
箴言1章1~7節
コロサイの信徒への手紙1章9~10節

Ⅰ.はじめに

わたしの両親はすでに天に召されたのですが、両親の葬儀や納骨、記念会などを通して、両親の兄妹、友人、教会のみなさんと話す機会ができるものです。その時に父や母の昔話しを聞くと、子どもの目から見た父や母とは違った、知らない部分がたくさんあったのだと気づくことがありました。あんなに長い時間を共に過ごしてきたのに、自分が知っているのは、父と母のある一部分なのだと思わされました。今日は「神を知って生きる」と題して御言葉に触れていきたいと思います。神を知るということを考えてみたいのです。
パウロは、コロサイ教会の人々についての良い報告をエパフラスから聞いて、神に感謝しないではいられませんでした。しかしまたコロサイ教会に異端の教えが侵入していると聞いて、彼らのためにも祈らずにはいられませんでした。今日の聖書箇所もパウロは祈っているのです、パウロは物事の始まりにも終わりの時にも祈っていました。彼こそはまさしく祈りの人でした。

Ⅱ.神を知る

このようにパウロが祈っている内容を見ますと、コロサイ教会の人たちの信仰がまだ完全でなかったことも、見ることができるのです。それは、「“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分に悟る」ように言っているのです。つまりコロサイの人たちが、これからもっと神様のことを知るようにと願っているのです。もちろんただ単に、聖書の膨大な知識を蓄えて博識になるように言っているのではありません。パウロが言わんとしていた「知る」というのは、人格的に神を深く知るということです。9節では「十分悟り」と訳されている言葉ですが、このギリシャ語の「エピグノシス」は、ただ「知る」とか「認識する」とも翻訳される言葉ですが、ここでは「悟る」と訳されていて相応しい翻訳だと思いました。パウロが求めていたものは、一度「ああ神とはこういう方なのだ」と知れば、それで良いというものではなくて、そこからさらに深く神に近づくことによって、神との関係を深めて欲しいというものでした。認識するだけでなく、関係を深めていくということです。当時のギリシャ的な知識というのは理論的でしたが、ヘブライ的といいますか旧約聖書にアイデンティティをもつユダヤ的な感覚で知識といった時には、もっと人格的で現実的な意味となるのです。
神を深く知るということは、聖書に書かれている神について知るということですが、それだけではなく、今も霊的な存在として生きている神様を人格的に知っていくということです。ですから実際にその人の内面的な変革が起こるわけです。それがキリスト者として成長していくということです。そういうことを含めて、パウロはここで「神の御心を十分に悟り」なさいと言っているのです。

Ⅲ.「知恵」と「理解」

パウロは神の御心を知るためには霊による「知恵」と「理解」が必要なんだと言っているのです。霊によるのですから、自分の力ではなく聖霊なる、神の霊による「知恵」と「理解」です。ここで使われているギリシャ語はソフィアです。上智大学をソフィアと呼んだりしますが、上からの知恵というわけです。ですからどんな博識な人であっても、上からの神の知恵がなければ、学んだことも経験したことも、神の御心に相応しく活かされないということです。

Ⅳ.「実を結ぶ」ことを「深く知る」

そのうえで、主に喜ばれるように、主に従って歩みなさいという、コロサイの人々に実際の生活のことをいうのですが、今日の聖書箇所では、最初の二つの「実を結ぶ」ということ、「神をますます知る」ということを、パウロは「あらゆる善い業を行って、実を結びなさい」と言っていますが、「あらゆる善い行いをする」というのは、神を知るだけではないということです。神を知った上で善い行いをすることで、それが結実する、実を結ぶことになるとパウロは言うわけです。そうすると神を知るということは、とても活動的なのですね。知っておしまいなのではない、知ったからには、行ってこそ実を結ぶのです。わたしはパウロがエフェソ2章で言った「神が前もって準備してくださった、善い業のために、私たちが造られた」というみ言葉が好きです。自分の意思は弱くても、善い業を計画してくださった。その業を日々行って生きていく。やがて神様の姿に似ていくのではないでしょうか。
そのようにして10節の終わりでパウロは、「神をますます深く知るように」と言って結んでいます。聖書を通して神という方を知ること、そして日々の善い行いをしながら、その神と人格的に近くなっていく、いや近づけないと思わされながら、ますます神を「ああこういう方なのか?」と深めていくことになるのです。そんな生き方がキリスト者の生活というものではないでしょうか。パウロはそのように祈っているのですね、コロサイの人々が、神をますます深く知るように、そうして神と近い関係になって欲しいと祈っているのです。

Ⅴ.「主の祈り」を通して

先ほど、神様のイメージの話しをしましたが、その神様のイメージはいつも礼拝で祈っている「主の祈り」を通しても見ることができます。私たち高座教会で祈っている主の祈りは、他の教会の「主の祈り」とは違うと思った方もいると思います。「主の祈り」はマタイの福音書6章や、ルカの福音書11章でイエス様が教えてくださったお祈りのことですが、その箇所の「新共同訳」聖書の翻訳に合わせて造られたのが、この「主の祈り」です。
まず、「天におられる私たちの父よ」は、ここから父のような頼もしい存在なのだ、と神様をイメージできます。「御名が崇められますように」と崇めるような聖い方、聖なる方だと分かります。「御国が来ますように、御心が行われますように、天におけるように地の上にも」ここからは、神様は天を統べ治める王様のような存在で力に溢れた方です。「私たちに日ごとの糧を、今日も与えてください」という言葉から、私たちに心をかけてくださり惜しみなく養ってくださる、飢え渇かないように備えてくださる方。さらに「私たちの罪を赦してください」と、罪を赦してくださるような、寛容で憐れみ深い方。そして「私たちを誘惑に遇わせずに、悪い者から救ってくださる」救い主です。最後に「国も力も栄光も、永遠に主よ、あなたのものです」というように、永遠の方であることが分かります。
この「主の祈り」は、イエス様が教えてくださった祈りですから、この祈りを通して父なる神様がどのようなお方なのかを、イエス様が祈りを通して明確に教えてくださったのです。同時にイエス様が示してくださった神様のイメージを私たちが知り、より深く知っていくにつれて、わたしたちが生きていくあるべき姿を、そこに見ることができるのです。
たとえば親とはどうあるべきかを考えた時、神様は父親としてだけではなく、母親はどうあるべきかも明確にして下さいます。父親は強くて頼もしい一家の大黒柱ですし、母親は優しくて包容力のある存在です。イエス様が「父よ」と示される神様は、父親や母親が持っているすべての性質が、完全なバランスをもって表されていることが分かります。子どもにとって父親、母親というのは強く頼りになる存在、必要な物を備え、惜しみなく与え、寛容であり、悪に傾いた時に救いの手助けをしてくれる、そして幾つになっても親は親、子は子として繋がりに変わりはありません。
私たちはそのような神様の性質を知ることによって、少しずつ自分達もそのように変えさせられていきます。パウロがコロサイの人々の為に祈ったように、今、私たちの為に祈ってくださっているのは、イエス・キリストです。
私たちの本質的な罪の性質である、背きの罪を執り成し、救う事ができるのはこの方の十字架の業によっています。私たちはイエス様を見ることを通して、父なる神様を見ることができるのですが、そうなるようにと、いつも私たちを見守り、執り成しをしてくださる、この方の祈りを忘れてはなりません。私たちはこのキリストのことを、どこまで知っているのでしょうか? 間違いないことは、私たち以上に、主は私たちのことを十分に知っていてくださるという事です。このことに信頼してこの一週間、神様のことを知り、この方に信頼し、この方が用意してくださった善い業を行っていきたいと願います。お祈りします。