2017年8月13日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
ヨハネによる福音書15章13節
ルカによる福音書7章36~50節
Ⅰ.「アイ・ラブ・ユー」=「死んでもいい」
(by 二葉亭四迷)
昔、二葉亭四迷が、「アイ・ラブ・ユー」という英語の言葉を、「死んでもいい」と訳したそうです。イエスさまは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:13)と言われ、愛ほど大きなものはないと教えてくださいました。
このイエスさまの言葉は私たちに命を捨てることを強制しているのではなく、「誰かを愛する」ということは、その人のために何かを捨てること、何も捨てずにいて人を愛することはできないと語っているのです。今日は、このキリストの愛について考えてみたいと思います。
Ⅱ.「罪の女」
このことをご一緒に考える上で、ルカによる福音書7章36節から50節に出てくる出来事を中心に見ていきたいと思います。
ところで、どの世界にも規則が好きな人がいるように思います。自分で考えることが面倒くさいので、規則を作って安心するということをします。また、役割や立場が与えられないと動けない人もいます。いずれにしても、規則を守ったことで、神さまを愛し、隣人を愛したことにしてしまう。それが律法と呼ばれる規則の落とし穴でした。
実は、こうした意味で律法を大事にしていた人物が、今日の箇所に出てくるファリサイ派に属するシモンという人でした。その彼が、ある日イエスさまを食事に招待したのです。
するとその食事の席に、この町で有名な「罪深い女」が入ってきたのです。この後の話の流れを見ていくと、彼女は、人前で髪の毛をすぐにでもさらすような状態で居ましたので、彼女が「遊女」であったことを、この福音書を記したルカは暗黙の前提にしていたようです。
その女性が律法に厳格なファリサイ派に属するシモンの家にやってきた。見つかれば「お前みたいな奴が来る場所ではない、出て行け」とつまみ出されるのが関の山だったと思いますが、彼女は危険を犯してやって来たのです。それはイエスさまにお会いしたいという一心からでした。
彼女はイエスさまの後ろから遠慮がちに近寄りました。手には、高価な香油の入っている石膏の壷がありました。感極まった彼女の目からは涙がボロボロと流れ落ちて来たのです。
ユダヤの習慣に習って、身を横たえ足を伸ばして食事をしていたイエスさまの足に、その涙がかかってしまったのです。すると、とっさに彼女は自分の長い髪の毛をさっとほどいて、それで涙をぬぐい始めたのです。
それに対してイエスはどうされたかというと、その足を引っ込めることもせずに、彼女のなすがままに任せました。涙を拭いた後、彼女はイエスさまの足に接吻し、さらに、高価な香油を塗ったのです。
Ⅲ.ファリサイ派シモンへの問い
足に落ちた涙を髪の毛でぬぐい、その足に接吻し、そして香油を塗る。これは考えれば考えるほど、異常な情景でした。この様子を見ていたファリサイ派シモンが、「もし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と、心の中で思ったのは当然のことでしょう。彼の考え方は、筋が通っていたと思います。シモンが言うように預言者は、「人の本質」を見抜く目を持っているのです。イエスさまはまさに、シモンが期待した通りに、預言者としての鋭さと清さをもって、この女性をではなく、シモンの心を見抜き、「シモン、あなたに言いたい事がある」と声を掛けられたのです。シモンは驚きました。
驚くシモンに、イエスさまは次のたとえを語られたのです。
ここに借金をしている者が2人いる。1人は5百デナリオン、もう1人は50デナリオンの借金です。この2人とも借金を返せないで困っていた。しかし金貸しは、両方とも、その借金を帳消しにしてやりました。
ここでイエスさまは、神さまを金貸しにたとえて話しておられます。ここまで話して、イエスさまはシモンに訊ねました。「2人のうち、どちらが多く、その金貸しを愛するだろうか」と。シモンは「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えました。実は、この言葉がシモンの実態を明らかにする物差しとなるのです。
まず女性の方を見てみましょう。彼女は自分の涙でイエスさまの足をぬらし、髪の毛でそれをぬぐい、さらに高価な香油を塗ってイエスさまに対する愛を表しました。彼女がイエスさまの赦しを経験したからです。
これに対して、シモンはどうでしょう。シモンはイエスさまを食事に招きましたし、失礼な言動をしたわけではありません。しかし、イエスさまは、シモンに対して、最後にこう言われました。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦される事の少ない者は、愛することも少ない。」
これはシモンに対する痛烈な批判でした。シモンがイエスさまの足を洗う水も提供せず、挨拶の接吻もせず、頭にオリーブ油を塗らなかったのは、シモンが善人で、彼のうちには赦される罪が少なかったからなのでしょうか!? 決してそうではありませんね。彼がそのような具体的な愛の行動を取れなかったのは、彼の心の内側に、イエスさまに対する感謝と愛が少なかったからです。
イエスさまは、この女性のために十字架にかかることの約束をもって彼女の罪を赦しました。また、自らを正しいとするファリサイ派シモンのためにも、十字架の上での贖いの死を遂げてくださったのです。
つまり、彼女の罪の赦しのためにイエスさまの命が必要であったと同じように、この正しい事をたくさんするファリサイ派シモンの赦しのためにも、主はご自分の肉を裂き、血を流す必要があったということなのです。
この女性はイエスさまとの出会いの中で、深い主の赦しの愛を経験しました。しかし、残念ながらシモンの方はそれを受け止めることができなかったのです。
Ⅳ.感謝と喜びをもって―愛されて愛する
私たちも主イエスさまの十字架の赦しを必要としています。そして私たちは、誰もが皆、神さまから多く赦され、多く愛されている者です。ただ、その事実を知っているかどうか、それが大きな違いをもたらすのです。
今日の箇所に戻りますが、イエスさまに近寄り、涙が出て、もう止まらなくなり、イエスさまの足に口づけし、高価な香油を注いだ女性は、悪いことをしたために、町の人々から責められ、いじめられていた人でしょう。でも、イエスさまは、その女性を責めませんでした。苦しめませんでした。全部を赦し、心から愛してくださったのです。考えもしなかったこの喜ばしい出来事のゆえに、彼女は自分に出来る精一杯のことを、イエスさまに捧げ、イエスさまへの愛を表したのです。
イエスさまに赦され、助けられ、愛されていない人はいません。ただ、そのことに気づいていない人は大勢いるのです。
それはちょうど、列車の乗客が、自分の乗っている電車の下で、命がけでその列車の安全のための働きをしている駅員がいることに気づかず、平気で旅を楽しみ、何事もなかったかのように生きている、その姿に似ているのです。
礼拝堂の正面に十字架があります。これがキリスト教のシンボルです。でも、よく考えてみると、十字架、これは人を処刑する時に使う道具です。
キリスト教がわからない。聖書がわからないという方、神の愛がわからないという方は、なぜ、キリストが十字架にかからねばならなかったのか、という問いを持ちながら、礼拝に出ていただきたい、聖書を読んでいただきたいと思うのです。
このことについて聖書ははっきりと教えています。イエスさまの命と引き換えに生かされているのが私たちだ、と。
この主の赦しの愛をいただいている私たちが、果たして「多く愛する者」に変えられているかどうか、聖書は、私たちに問いかけているのです。
本当の意味で十字架の愛を経験していたのなら、私たちは、もっともっと主を愛し、主に自らを捧げ、そして周りの人たちに仕えるキリストの弟子に変えられていくでしょう。何故ならば、本当の神さまの愛を知っている者は、それが、その人の生き方として現れてくるからです。
今日は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスさまの御言葉を読み、一緒に学んできました。イエスさまご自身の愛、神さまご自身の愛を、自分のこととして実感した時に、私たちの内側に起こる新しい出来事、それがこの御言葉そのものなのではないかと思うのです。
私たちも、多くを赦されたこの女性のように、徹底的に砕かれ、恥も外聞もなく主にお仕えできるほどに、主の赦しの愛を知らされ、その愛に生きる私たちであるように祈りたいと思います。
お祈りします。