2017年8月20日
松本雅弘牧師
詩編51編1~28節
マタイによる福音書12章33~40節
Ⅰ.イエスがキリストである「しるし」を見せて欲しい
今日の聖書箇所を見ますと、ご自分の働きを神の霊の働きなのだと宣言するイエスさまに対し、何人かの律法学者やファリサイ派の人々が、「先生、しるしを見せてください」と迫ったことが出て来ます。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙で、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(Ⅰコリント1:22)と語っていますが、イエスがキリストであることは、この世の科学によって証明することは出来ません。ですから歴史の教会はこうしたキリスト教の信仰を「知解を求める信仰」と表現しました。それは、まず信じることが先にあり、その後、初めて理解がついて来るからです。
Ⅱ.ヨナのしるし
さて、律法学者たちの「しるしを見せてください」という問いかけに対して、主イエスは、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」とお答えになりました。
今日も、礼拝の中でご一緒に「使徒信条」を告白します。その中に、イエス・キリストが十字架で死に、三日間、墓に葬られ、陰府にくだることを告白いたします。神さまは、それを「しるし」として示されたのです。
ある説教者は、ここでイエスさまが示された「しるし」は逆説的だ、と言いました。この後、マタイによる福音書を読み進めて行きますと、十字架の場面で、まさに死を目の前にしていたイエスさまに対して、居合わせた人々は「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」(マタイ27:42)と言ったことが記されています。つまり、イエスが十字架から降りるという「しるし」を示したら、「自分たちはお前をキリストとして信じてやろう」と言ったのです。
イエスさまは十字架から降りませんでした。彼らの挑発に乗り、その求めに応えて、十字架から降りて見せることによってではなく、逆に十字架の上に留まり、全ての痛み、苦しみ、渇きを一身に引き受け、陰府にまでくだることによって、ご自身がメシア・キリスト、神の子であることを証しされたのです。
「しるしを見せろ」と迫る律法学者やファリサイ派の人々に、「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」と言われたイエスさまの言葉の通り、ヨナは、神さまの御心に背くという、自分の罪のために大魚の腹に閉じ込められ、主イエスは人の罪のために「大地の中」、すなわち陰府にまでくだられたのです。これこそが私たちのためにイエスさまが用意された「しるし」だったのです。
Ⅲ.キリストを知っていることの「証し」
律法学者やファリサイ派の人々は「先生、しるしを見せてください」と、主イエスに迫りました。また、十字架につけられたイエス様に向かって、そこに居た人々は「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」と言って「しるし」を求めました。
イエス・キリストを信じるために、また、洗礼を受ける決心をするにあたって、私たちも神さまから何らかの「しるし」を求めることがあるかもしれません。今この時も、何らかのきっかけ、あるいは「しるし」が与えられることを期待している方もおられることでしょう。でも、どうでしょう。すでにイエスがキリストであることを示す「しるし」は与えられている、と福音書は語っているのです。
イエスをキリストとして指し示す「しるし」を、私たちが科学的真理を提示するように示すことはできないと、ある方が語っていました。
それでは、信じる私たちが、自分自身、主イエスのお働きをどのように受けとめたので信じるに至ったのか。さらにまた、イエスさまを知らない方たちに、イエスが救い主キリストである「しるし」を、どのように提示することができるのか。最後にそのことを考えてみたいと思います。
先週の聖書個所で、ファリサイ派シモンの家に突然現れた女性が、イエスさまの足を涙でぬらし、髪の毛で涙にぬれた足を拭き、その足に接吻し、香油を塗ったという出来事をご一緒に見てきました。
その女性を心の中で軽蔑し、裁いていた人物、それは、その家の主人シモンでした。主イエスはシモンの心を見抜かれ、「多く赦された者は多く愛する」というメッセージをお語りになりました。
先週の説教でお話しましたが、その女性にしろ、シモンにしろ、私たち全ての者はみな、神さまから多く赦され、多く愛されている者です。そうでない人間は誰一人いません。ただ、その事が分かっているか、分からずにいるかの違いなのだ、とお話しました。
アントニー・デ・メロという司祭が「ほんとうに知ることは、知っていることによって人間が変わることです」と語っていますが、この言葉は、神を知っていると告白する私たちにとって、とても大きなチャレンジの言葉として、心に響いてくるのではないでしょうか。
私を多く愛し、多く赦して下さったお方として、すなわち、生きたお方であるイエスさまと交わることで、私自身が「多く愛する者」へと変えられているかどうか、そのことにかかっているということなのです。
多く愛された者として、多くを愛する者へと変えられた私の存在自体が、家庭や職場、学校や地域で、まだキリストを知らない方たちに、そのお方、イエス・キリストを指し示す「しるし」となる、ということなのです。
Ⅳ.木とその木が結ぶ実
今日の聖書の箇所に戻ります。33節から35節を見ると、ここで主イエスは、「実」こそが、その「木」、その人の良し悪しを表わす「しるし」となる、と語られました。
12章に入ってから、ファリサイ派の人々とイエスさまとの間に起こった幾つもの議論を通して、ファリサイ派の人々の言動が、実は彼らの内実を示す「木の実」となって表れているのです。ですから、そうした「実」を実らせている彼らに向かってイエスさまは、「蝮の子らよ」と強い言葉をもって批判をなさったのです。そして、この「実」こそが、その「木」、その人の良し悪しを表わす「しるし」となると言われる主イエスの言葉は、私たちをもう一度、聖なる神の御前に立たせ、信仰の自己吟味を迫る言葉となるのです。
自らの「実」を見る時に、あの「多く赦されたがゆえに多く愛している女性」とはほど遠い、ファリサイ派シモンのように「貧しい実り」しか付けることの出来ない我が身であることを知らされるのではないでしょうか。
説教の準備の中で、何人かの説教者が、今日の聖書箇所と詩編51編を結び付けて説教していることを知らされました。
詩編51編はダビデの悔い改めの詩編と呼ばれています。この歌が生み出された背景について2節に、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」と記されています。それが詩編51編だと言われています。
ダビデは祈りました。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」。12節のダビデの祈りの言葉です。神の御前に自らの罪を示され、自分自身に絶望したダビデが、最後の最後のところで、主の前に祈った祈りです。
神さまの御前における、この信仰の格闘は、個々人が、時間をかけて取り組むべき事柄です。そして、神さまが、一人ひとりに時間をかけて取り扱ってくださることです。
ここでただ私は、しみじみ思います。キリストにある私たちは、「本当に幸いだ」と。それはダビデが絶望の中で祈り求めた「新しく確かな霊」、「わたしの内に清い心を創造する新しく確かな霊」、すなわち聖霊を、私たちは洗礼を受け、神の子とされた時にいただいているからです。「アッバ、父よ」と、神を呼ぶことの霊を、私はすでに授かっているのです。ダビデが祈った、「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」という祈りは、すでに主イエス・キリストによって実現している、ということなのです。
コリント教会に宛てた手紙の中で、パウロは次のように語っています。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19-20)
私たちは、キリストの霊を内側に宿しています。その新しい恵みの現実を心に留めながら、イエスをキリストとして指し示す「しるし」としての私たち自身が、「証し」の歩みを、日々進めさせていただきたいと願うのです。お祈りします。