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主日共同の礼拝説教

まず感謝しなさい

2017年8月27日夕礼拝
和田一郎伝道師
ダニエル書6章1~11節
コロサイの信徒への手紙1章11~12節

この手紙は、パウロが獄中にいた時に書かれたとされている手紙ですが、コロサイの人々が間違った教えに従っているところもあった様子を聞いたパウロが心配して書いた手紙です。ですから、今日読みました聖書箇所を含めて、この手紙の1章9節のところからは、間違った考えに流されてしまわないように、心配しているパウロが、執り成しの祈りを祈っている部分です。

Ⅰ.執り成しの祈り

祈りにはいろいろあります。願いであったり、感謝であったり、罪を告白する祈りなどさまざまですが、誰か人の為に祈ることを「執り成しの祈り」といいます。自分のことではなくて他の人のことを神様に祈るわけです。パウロは神様と、コロサイの人々の間に立って、コロサイの人の為に神に祈っているのです。「父なる神様、コロサイの人々が神の力に従っていくことで強められますように。どんな苦労があっても根気強く忍耐して、キリスト者になったことを喜んで、感謝できるようにしてください。」と、祈っているところです。「神の栄光の力・・・あらゆる力によって強められますように」。この祈りの意味は、目に見える世間的なものに頼らないで、目には見えない神の力を信頼して欲しい、神の栄光は、直接目に見えるものではありませんが、それを信頼して生きる人というのは光り輝いて見えるものです。「あらゆる力」とあるように、神はあらゆる力をもっている方ですから、その力によって強められて欲しいとパウロは神様に執り成して祈っているのです。

Ⅱ.忍耐が成長させる

それとあわせて「どんなことにも、根気強く耐え忍ぶように」と、コロサイの人々に向けて祈っています。どんな時代でも苦しみや困難はあります。イエス様やパウロが生きた時代も戦争や紛争がありました。今もあります。人と人とが争ってしまうという性質は、人間のもっている罪の性質です。創世記のエデンの園で、人間が神様との関係に背をむけてしまったとおり、人が本来大切にしなければならない神様との関係も、人と人との関係においても、人は背を向けて自分の力を優先しようとする性質をもっています。神様との関係より自分自身のこと。神を信頼することより自分の力で自分は生きていけるのだと思ってしまいます。この世の中でものをいうのは、お金が十分にあることや、優位な立場にあれば、神に従って生きるよりも大事だと思い込んでしまう。そんな独りよがりな考えが争いを生んでいるのです。パウロの生きた時代も争いはありました。特にキリスト者の立場からすると迫害があった時代です。パウロ自身もそのために鞭で打たれたり、石を投げられたり、牢に入れられました。その恐れはコロサイの人々の周囲にもあったわけです。そういったものに対して、徹底して戦ったり、抵抗するようには言いませんでした。それらを神に委ねて「根気強く耐え忍ぶように」とパウロは祈っていました。コロサイの人々もキリスト者となってまだ年数も浅く、歴史も伝統も少ない人々です。そういった人々がキリスト者として成長していくために、「根気強く耐え忍ぶように」願っているのです。
パウロは忍耐することが、キリスト者として成長することであると、堅く信じていましたが、わたしは、このことを聞いて思い浮かぶのは、香港のカンバーランド教会です。今月AYGというアジアの青年が日本に集う集会がありました。そこに香港から沢山の若者たちが来てくれました。カンバーランドのアジア教会の中でも香港の教会はとても成長している教会です。しかし、こんな話しを聞きました。香港のカンバーランド教会は歴史的に二度危機を迎えたそうです。まず最初が今から20年前の1997年のイギリス領から中国へ返還された時。そして、今、中国本土の政府が香港社会に介入を深めている現在と、二度にわたって感じたそうです。中国は共産党の一党独裁政権で、個人の信仰の自由に関しても、イギリス領であった香港とは自由の度合いが違います。その信仰の自由を脅かす恐れがあった時期に教会が増え、イエス様に立ち返る人が多く起こされたと聞きました。現在は中国政府を擁護する人々と、民主主義の危機を感じる若い世代の間での分裂が問題となっているというのです。しかし、若い世代からは社会の中で教会の役割とは何かを考え直す運動が進んでいるということを聞きました。香港の教会が二度にわたる試練の中で、試練が忍耐を、忍耐は練られた品性を、そして品性が希望と成長をもたらしていることを感じました。
パウロ自身も同じだったのではないでしょうか。以前はキリスト者を探し出して迫害するような、攻撃的な人でしたが、キリストに出会った後は、試練を幾度も受けましたが、耐え忍ぶことで信仰者として成長していったのです。決して争うことをせずに、迫害に対しても忍耐することでパウロの教えは用いられたのです。

Ⅲ.ダニエルの信仰

12節に、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者」とありますが、キリスト者となったコロサイの人々に、その特権を、父なる神に感謝する者になって欲しいと祈っています。パウロは他の手紙でも、一貫してどんな時でも感謝することを勧めています。パウロ自身、牢獄の中でも、神に感謝することを忘れない人でした。
ダニエル書には、イスラエルの国を滅ぼされ、敵の国へ捕囚の民とされて連れていかれたダニエルの話しがあります。ダニエルは優秀な賜物があったので囚われの外国人であっても、その国の大臣に用いられました。6章4節には「ダニエルには優れた霊が宿っていた」とあります。それは、彼の「誠実」です。他の大臣たちは自分の利益のためには偽ることを何とも思っていませんでした。しかし、ダニエルは、自分の与えられた役割と信仰に関して誠実でした。自分の日常の仕事や生活の場にあって誠実に生きることができたのは、一日に三度、祈りと賛美を神に捧げていたからです。神に従うことが生活の中心にあったからです。パウロもどのような迫害にあっていても、常に神を賛美して祈っていた人でした。そうした人の生活には必ず感謝があります。感謝することが、忠実な人を造り上げ、人から信頼され神から守られた。感謝することが、その人の生活を変えていきました。その背景に祈りの習慣があったという事ではないでしょうか。

Ⅳ.まず感謝するイエス・キリストの祈り

感謝することにおいては、イエス様もまた見習うことです。感謝から恵みが生れることが分かるのは、5つのパンと二匹の魚の話しにも見られます。イエス様は五千人に食事を与えるという奇跡をなされました。五千人に対して、たったの五つのパン、たったの二匹の魚でしたが、その小さなものに落胆したり、文句を言ったりしたのではありません。
「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」
(ヨハネ福音書 6章11節)。
イエス様はパンをとって、感謝の祈りを唱えましたが、どんな感謝の言葉であったと思われるでしょうか。五千人に対して、たったの五つのパンと、二匹の魚でどんな感謝をしたのでしょうか?
わたしたち人間は、感謝を忘れてしまいます。あれだけ求めていた、あれほど願っていたものも、手に入れば感謝はその時まで。あとは当たり前のような顔をしてしまうのが私たちです。しかし、わたしたちが朝起きて、そこに生きていることは、あらゆる感謝すべき恵みの積み重ねの上になっているのです。イエス様がパンと魚をとって、まず感謝したように、感謝することから神の恵みは見えてきます。まず感謝することが、「恵み」を恵みとして受け取ることができる秘訣です。感謝は生活を変えます。感謝がその人の人生を祝福に導きます。パウロはそのように確信してこの手紙を書いていますが、私も本当にそうだと感じます。
わたしたちが聖書の言葉を神の言葉であると信頼できる恵み、キリスト者とされた恵みはイエス様の十字架の犠牲があったが故の恵みです。2千年前の、ただの過去のできごとではありません。十字架は私たちの問題、私たちの「恵み」です。
コロサイの人々のために、パウロが執り成しを祈ったように、わたしたちが苦難の中にあっても耐え忍ぶことができるように、今ある恵みに感謝できるように、執り成しの祈りをしてくださっているイエスキリストです。わたしたちのために、今も祈ってくださっています。