2017年9月3日
松本雅弘牧師
イザヤ書5章1~12節
マタイによる福音書12章41~50節
Ⅰ.空の家
私たちは「木と実のたとえ」に耳を傾け、内側から清くされることの重要性についてイエスさまに学びました。その続きの教えを読みます時、実はそこにもまた落とし穴があることに気づかされます。
私たちは、悪霊が好む場は汚れたところと考えるのが普通でしょう。ところが、主イエスさまは、悪霊の好むのは綺麗に掃除され整えられた家、しかも空き家だというのです。
ある人の表現を使えば、当時のファリサイ派の人々は「神の家」と表札を掲げているような存在でした。「神の家」と表札を掲げていても、主人である神さまが不在、いや主人をお迎えする心になっていなかったのです。そうしたファリサイ派の人々に対して、主は警告し、「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(マタイ12、45)と言われたのです。
Ⅱ.ニネベの人々とシェバの女王
ですから、問題はどんな表札が掲げられているかではなく、実際に、家の中にイエスさまを主人としてお迎えできているかどうかということです。そして、このことこそ「悔い改め」ということなのです。「悔い改め」の例として、ここで主イエスさまは、旧約聖書にでてくるニネベの人々と、シェバの女王を取り上げました。そして、この二者の悔い改めの出来事を話された後に、それぞれの話の終わりに「ここに、ヨナにまさるものがある」、そして「ここに、ソロモンにまさるものがある」と言葉を添えられたのです。「まさるもの」とは、もちろんイエスさまご自身のことです。
このように心からの悔い改めをもって、主イエス・キリストを心にお迎えしなさい、そのように主イエスは、私たちに促されるのです。
Ⅲ.主イエスの身内
さて、この時、イエスさまは群衆に取り囲まれ、その会堂には大勢の人が集まっていました。そこにイエスの母親と兄弟たちがやって来て、会堂の中に入らず外に立ち、入り口の近くに立っている人に話しかけ、イエスを呼びに行って欲しいと頼むのです。
イエスさまの家族のこうした態度は何を意味するのでしょうか。「息子イエスと話したい。私はあのイエスの母親である」、「兄のイエスに用がある。自分たちは弟である」。このような思いの中で、〈母親であり弟である者たちが「話がある」と言っているのだから、家族であるイエスが出て来るのは当たり前だ〉という暗黙の前提があったのでしょう。家族が呼んでいると言われれば、普通でしたら外に出て行くでしょう。主イエスはどうなさったのでしょう? 外に出て来ないのです。外に出て来るのが当然と思う「私たちの当然」と「イエスさまの当然」、私たちの常識と主イエスのお考えの間に開きがあることが分かります。
この点について少し考えてみたいと思います。すでに、イエスさまは28節で「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言っておられます。神の国はもう到来している。神の支配がもうここに始まっている、と主は宣言されました。この場(会堂内)において、神の国はもう、すでに起こっている、実現しているというのです。
ところが、その神の御業、主イエスがなさっているその御業に、血のつながりのある家族は関わりを持とうとせず、外に立っているのです。イエスさまの血縁の家族は、この時、主イエスが明らかにしようとなさった神の国の現実、神のご支配に対して、まったく無理解なのです。神の国の現実に心の目が開かれること、神のご支配のもとに立って生きることなど、これっぽっちも考えていないのです。
これが、この時この場で起こっていた出来事でした。自分たちは肉親で家族です。だから外から呼び出しをかけることもできる。他の人には出来なくとも身内だからできる。身内の特権としてそれができる。だから中には入らないのです。そして中にいた人たちも当然のこととして、家族のそうした思いをそのまま受けとめたのです。
Ⅳ.主にある家族
このような出来事の中で、イエスさまは口を開かれました。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。そして、弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(12:49、50)と。
ある説教者は「これは1つの宣言である。ここに新しい家族がある、との宣言なのだ」、と語っていました。
今日この後、私たちは聖餐に与ります。最後の晩餐の席上で取り上げたパンを指し、「これはわたしの体である」と宣言し、そしてまた杯にも「これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と、主イエスは宣言されました。この主イエスの宣言があったので教会に聖餐の歴史が始まったのです。
最後の晩餐でパンと杯を指して主が宣言なさったように、今日の箇所のこの場面においても、ご自分のそば近くにいて、ご自分を取り巻いている弟子たちを指さして、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と宣言なさったのです。これは、とてつもなく重みのある主イエスの宣言の言葉です。この時この瞬間、イエスさまは血のつながりを超えた主にある家族を指し示されたからです。
ところで、ここでイエスさまの口から突然飛び出した「私の母とは誰ですか」という言葉を聞いたマリアは心傷んだかもしれません。あるいは、自分の立場が分からなくなったかもしれません。
福音書の中に登場するマリアの姿を見ていくと、マリアはかなり最後までイエスさまのことを理解できずにいたように思います。でもイエスさまは、母親や弟たちをお見捨てになったわけではないのです。
ご存じのように十字架の場面で、主イエスはヨハネに向かって母親マリアを託されました(ヨハネ19:26、27)。また、あの2千年前のペンテコステの日に「父の約束」なる聖霊の降臨を祈り求めるために集まっていた中にマリアの名前を見つけることができます。そして主イエスの兄弟の名前も見いだすのです(使徒言行録1:14)。
このように、理解できずにイエスさまを連れに来たマリアも弟たちも、最後にはイエスさまを救い主と信じて救いをいただき、聖霊の降臨も経験できたのです。
大切なことは、ここでイエスさまは母親マリアや弟たちのつながりを、ただ生まれながらの血筋によるものとして満足しなかったということです。
「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言し、宣教を開始されたイエスさまは、この場面で、母親も弟たちも、ご自分が命をかけて取り組んでおられる神の国に生まれることができるように、はっきり宣言されたのです。今ここに神の国、神のご支配が現れた、「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と。だから、その神の支配の許に自らを委ねなさいと言って、神の家族の絆に入るように招かれたのです。
だいぶ前のことですが、日曜日の夜、まぶしいような青ジャージ姿の中学1年生が、部活を終えて夕礼拝に駆けつけてきました。体力的にも、つい先日まで小学6年生でしたから、中3年生と一緒の部活の練習はきつかったことでしょう。疲れた体を押して夕礼拝にやって来る、間に合ったと安心して腰掛けた瞬間、睡魔に負けていました。礼拝が終わって、照れ笑いをしながら「眠っちった」と帰っていきました。
父なる神さまは、その子の全てをご存知で、疲れた体を引きずるようにして礼拝にきたことを喜んで祝してくださっていると思います。たとえ眠ってしまったとしても、駆けつけて来た彼に対して「来てくれてよかった。お前が居てくれて嬉しい」と喜ばれるのです。
主イエスさまが洗礼を受けた時、天が開け、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が鳴り響きました。それと全く同じ御声を、父なる神さまは子である私たち1人ひとりに掛けておられるのです。
神さまは、罪を憎みます。しかし私たちを愛しておられます。神さまが罪を憎むのは、罪が、神の子たちを傷つけ不幸にするから、神さまと私の関係を断絶するからです。
神の子たちのことを思い、的外れの生活から解放したいと願っておられる神さまは、罪の支払う報酬である死を、十字架の上で、私たちの身代わりとなってご自分の身に受けてくださったのです。
神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、私たちを見ておられます。放蕩息子の父親が息子の帰りを待ち、戻って来た時に「ああ、よかった!」と喜んだように、私たちの存在を喜んでくださるのです。それが、神さまの家族になったことの恵みです。
主イエスは宣言なさいました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」。この恵みの宣言を心の中に響かせながら歩む1週間でありますように。
お祈りします。