カテゴリー
ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

与えられた関係で生きる

2017年9月10日
松本雅弘牧師
創世記2章18~25節
ルカによる福音書2章41~52節

Ⅰ.「三つ子の魂、百まで」

誰もが色々な弱さを抱えながら生きています。父親、母親も同じです。私の両親も同じように、弱さや限界を感じながら、私を育ててくれたのだと思います。
そして思春期になった私は、両親の姿を見て、その良い面というよりも、むしろ弱さの部分が気になり、それが全部、子である私に引き継がれているように感じたものでした。その結果、〈どうして俺の親はああなんだ〉、〈なんでこんな家庭に生まれて来たのだろうか?〉などと、勝手に考えて、悩むことがありました。

Ⅱ.神さまが預けてくださった

考えてみますと、生きていく上でのこのような悩みは、小さなものから大きなものまで、さらには、もっと深刻な悩みもあるでしょう、誰もが、そうした悩みを抱えながら生きていると思うのです。
今、自分自身をふり返ってみますと、このような悩みがあったからこそ、「聖書を読むようになった」のです。そして、聖書を読む中で、その都度、み言葉によって支えられ、導かれてきたのだと思うのです。そうした中で、支えとなった聖書の言葉の1つが詩篇22編10節と11節でした。
「わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。」
神が、私をこの両親に託したのならば、私がどのような性格の持ち主になるのかを百も承知の上で、また、何かしらの意図をもって、この者をこの環境に誕生させ、生きることを求められたのだ。この詩篇の言葉と出会い、そして、支えられた、クリスチャンになって間もない頃の思い出です。

Ⅲ.イエスさまの経験

では、人はどのようにみ言葉に支えられるのか。イエスさまの経験から考えてみたいと思います。今日の箇所には、成人式を翌年に控えて、青年期特有の悩みを抱えたイエスさまが登場します。
この時イエスさまは、自分の両親の元から失踪するようにして神殿にこもり、父なる神のみ前に、心の中にあった疑問や葛藤を注ぎだしていたのではないかと思います。
その結果、イエスさまは「自分の本当の父親は神さまなのだ」と、深い意味を悟ることができたのです。
それが「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2章49節)いうイエスさまの発言となって表れたのだと、ルカは私たちに伝えています。
聖書はイエスさま誕生の経緯を伝えています。マリアの婚約者のヨセフは、最初、マリアの妊娠の事実を受け入れられずに苦しみました。その後人口調査のため、身ごもったマリアと一緒にベツレヘムへの長い旅をし、やっと到着したベツレヘムです。そこはヨセフの故郷、親戚も多く住んでいたはずです。しかし、ベツレヘムの人々は彼に対して物凄く冷たかったのです。福音書を記したルカは、その事実を「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と表現しています。こうした彼らの冷たさは、そこまで届いていたマリアの妊娠をめぐる噂のせいだったかもしれない、と聖書学者は語ります。
仮にベツレヘムでそうだとしたら地元のナザレの人々はどうだったでしょう。婚約者ヨセフですらマリアの妊娠の事実を受け入れるのに困惑したほどの出来事です。だとすれば赤の他人であるナザレの村人たちが真実を理解することは難しいことだったと思います。
ある聖書学者は、マリアの妊娠はナザレの村においてスキャンダルとして受けとめられたのではないか、と語ります。そんな心ない噂を耳にしながら、主イエスは成長されたかもしれません。確かにマリアは実の母親です。でも生物学的にヨセフは実の父ではありません。そのことをイエスさまはどう受けとめておられたのでしょう。
そうした中で、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」というイエス様の言葉は、何かを悟ったような、確信に満ちた言葉として聞こえて来るのです。
これは、「肉親を超える神という存在との関係から、今の自分を受け取り直す」こと、「神との関係において、私が置かれている関係をとらえ直す」こと。つまり、自分の人生に「神さまとの関係」という「縦軸」を受け入れた時に、初めて可能となることです。これが、この時の主イエスの経験だったのではないでしょうか。
そしてこのことこそ、私たち1人ひとりが生きていく上で本当に大切な、聖書が教える知恵ではないかと思います。
私たちは、一人ひとり異なる経験を経て、今の自分になっています。人から愛されること、時には、人から傷つけられること、人を傷つけてしまうこと。また、それぞれの家庭の事情や、家族構成も皆ちがいます。
そうした中で1つだけ共通することがあります。それは、両親や周囲からもらえなかった最も根本的な愛、それが、肉親を超える大きな存在、すなわち神さまから来るということです。何故なら私たちは神に造られ、神に愛されている存在だからです。
私たちは皆、ある親から生まれ、育てられます。時には別の誰かによって育てられるということもあるかもしれません。けれども、根本的には神さまから生まれ、育てられたのです。そして、また、現在、育てられつつある、それが私たちです。神さまこそが私の本当の親であり、私は神さまの愛する大切な子どもなのです。
これが聖書の教える基本的なアイデンティティーです。イエスさまは神殿の中で、そのことを知ったのです。神さまとの関係の中で、それを受け止めることができた、そのことを聖書は私たちに伝えています。
だからこそ、私たちも過去の境遇を嘆く必要はありません。神さまに造られ、神さまに育てられた神の子なのです。この神さまにおいてこそ本当の意味で満たされる経験ができる。本当の意味で自分を見出すことができる。
神においてこそ、本当の意味で大人として、1個の人間として歩み、生きることが許されているからです。

Ⅳ.万事を益とされる神さま(ローマ8:28)の御手の中で

今日は、旧約聖書の創世記2章のアダムとエバの結婚の箇所も読ませていただきました。よく結婚式で読まれる聖書の言葉の1つです。
ここまで、イエスさまの例を挙げながら、親子の関係を中心に見て来ましたが、実は、自分の意思だけで相手を選んだと思いがちですが、人生を共にしているパートナーとの出会い、夫婦の関係も、聖書によれば、「神さまに与えられた関係」であることを知らされるのです。
創世記2章18節をもう一度ご覧ください。
「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」
この言葉を注意して読む時、〈人が独りでいるのはよくない〉と考えて、〈アダムにふさわしい助け手、伴侶を造ろう〉とお考えになったお方は神さまなのです。
アダムやエバが最初に思いついたのではなく、あくまでも主語は「主なる神」です。つまり、出会いを備え、導かれたお方は、神さまなのです。神さまから贈り物として与えられた関係なのです。
勿論、私たちは、責任を持って関係を豊かにしようと努めます。でも、共に生きるその関係の中に、縦軸すなわち神さまとの関係をいただき、「与えられた関係」として受けとめること。そのことがとても重要なポイントだと思うのです。
私たちが、様々な人間関係の中に、縦軸という神さまからの視点をいただく時に、今までマイナスとしか見えなかったことが、実は、私たちの歩みを豊かに彩る、神さまからの賜物であることを知らされるのです。
水が半分入ったコップを見た時に、ある人は、「半分しか入っていない」と見ますし、別の人は「半分も入っている」と見ます。「半分しか入っていない」との見方をする人の方が多いかもしれません。不満や欠乏感で、つまらない気持ちになり、不幸になってしまうことが、私たちにはよくあるのではないかと思います。
しかし聖書に、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)とあるように、自分にとってマイナスと思えるような事柄も、苦い経験も、万事を益とする神さまのみ手に包まれる時に、それは、必ず祝福に変えられていくというのです。
私たちの心の目を開いていただき、すでに置かれている環境、関係の中に、神さまが良き贈り物を備えておられることを信じ、神さまが与えて下さり、支えて下さっている関係、また賜物を発見しながら、歩んで行きたいと願います。
お祈りします