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主日共同の礼拝説教

望みを抱き信頼しつつ歩む

2017年10月1日
松本雅弘牧師
ミカ書7章1~10節
マタイによる福音書13章24~43節

Ⅰ.天の国のさまざまな姿

13章に入り、イエスさまは「天の国」についてのたとえ話を次々とお語りになりました。ちょうど富士山を4方から眺めるように、神さまが、4人の福音書記者たちによってイエスさまのご生涯とその教えを伝えることにより、よりリアルで立体的なイエスさまを指し示そうとなさった、そのように主イエスさまは、様々なたとえを用いながら天の国のいろいろな側面について教えてくださったのです。

Ⅱ.「毒麦」のたとえ

最初に出て来るのが「『毒麦』のたとえ」です。この個所を読み進めて行きますと、次のように説明するイエスさまの言葉が出て来ます。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」(38節)と。
このイエスさまの言葉は大切なことを語っています。確かに、私たちの世界は様々な問題で満ちています。それでもなお、この世界は、主イエス・キリストによって良い種が蒔かれた良い世界なのだ、と語っておられるのです。
創世記第1章には神による天地創造の出来事が出て来ます。神さまは、創造された世界をご覧になり「良い」と宣言されました。私たちも含め、全ての被造物は元々良いもの、素晴らしいものとして存在している。それが聖書の教える基本中の基本です。
しかしそのように造られた世界において、それに相応しくない出来事が、日々起きている現実があります。そうです。「毒麦」が生えているのです。
このことについてたとえ話の主人は、それは「敵の仕業だ」(28節)と答えています。主人から「敵の仕業だ」と聞いた僕はすかさず、「では、行って抜き集めておきましょうか」と言いました。
これに対して、主人は思いがけない言葉を語ります。勇敢なこの僕に対して「待ちなさい」と制するのです。「ちょっと待ちなさい。慌ててはならない。そんなに慌てては、麦まで一緒に抜いてしまう間違いを犯しかねない」と言ったのです。主人は何故そう言ったのでしょうか。「毒麦を抜くこと」よりも「間違えて良い麦を抜いてしまわないこと」の方を優先したのです。

Ⅲ.「待て」

主人は、「毒麦を抜くこと」よりも「間違えて良い麦を抜いてしまわないこと」を大事にしました。「悪い奴」を始末することよりも、「誤爆のないように」ということに心を砕いたのです。
そして、主人が「待て」と僕に伝えた判断の背後には、もう1つ注目したい点があるのです。もう1つの理由、いや本当の理由があったのではないか、と思うのです。
私たち人間は間違ってしまうかもしれません。でも神さまだったらどうでしょう。全知全能のお方です。間違うはずはないのです。ですから、ここで待つ必要などはないのです。だとすれば、なぜ、イエスさまは、敢えて「待て」とおっしゃったのでしょうか?
結論から言えば、このことは、私たちが変わるのを待つ神さまの忍耐の表れだと思うのです。確かに今は毒麦かもしれません。でもイエスさまは、そんな私たちを待ち、忍耐し、寛容な心で祈っておられるのです。だから、「少し待て! 今日は抜くな」と言われたのではないでしょうか。
私たちの内にある力には限界があります。しかも自らの「毒」、自分自身の罪によって死んでもおかしくないような者です。ところが、そのような私たちを、主キリストは愛してくださったのです。さらに主イエスさまは、その罪という毒を消して余りあるほどの「贖いの力」を持っておられるのです。そのイエス・キリストが自ら十字架にかかってくださり、「あなたの罪は赦された」と宣言してくださったのです。それがイエス・キリストです。

Ⅳ.汚れていると思われているものから

そして今日の箇所には、もう1つ「天の国」のたとえ話が出て来ます。「『からし種』と『パン種』のたとえ」です。
「からし種」と「パン種」には共通点と相異点があります。共通点はどちらも最初は小さなもの、そして、その小さなものが大きくなり、物を膨らませるという点でも共通しています。
賛美歌412番に、「昔主イエスの蒔きたまいし、いとも小さきいのちの種。芽生え育ちて地の果てまで、その枝を張る樹とはなりぬ」とあるように、2千年前、世界の片隅で起こったイエスさまの出来事がその後、世界全体に拡がって行きました。それはまさに「からし種」と「パン種」の働きそのものでしょう。
そして、この「からし種」と「パン種」には相異点もあります。「からし種」は、種が地に蒔かれ、種そのものから芽が出て、木になっていきます。一方、「パン種」は自分が大きくなるのではなく、粉に混ざってパンを膨らませていくのです。「3サトン」※ とは、約40リットルほどの量です。これで百人分くらいのパンが出来るのだそうです。それほど多くのパンを作るのに、ほんの少量のパン種で大丈夫。ほんの少しのパン種が入れば、百人分のパンを膨らませることが可能なのだと、イエスさまは言うのです。
ところで、皆さんの中には、このたとえ話に違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。というのは、聖書の中で「パン種」は悪い意味で使われているからです。ここで、このたとえ話を聞いたユダヤ人たちも、「パン種」のことをそのように受けとめていたに違いないと思うのです。イエスさまご自身も、ある時、次のように言われました。「ファリサイ派とサドカイ派のパン種によく注意しなさい」(マタイ16:6)。そして、パウロもまた、コリントの人々に宛てて次のように記しています。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。」(Ⅰコリント5:6-7)
このように、聖書においては「パン種」とは不純物であり、それが少しでも入ると全体に大きな悪影響をもたらすのだと言っています。
ユダヤの人々は、そのように教え込まれ、そのように生きていました。ですから「パン種」の入っていないパンを食べたのです。「七日の間、あなたたちは酵母(パン種)を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の月に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから絶たれる。」(出エジプト12:15)
ですから、ここでイエスさまが、ユダヤの人々に向かって、敢えて、「天の国はパン種のようなものである」と語られたことに、何か特別な意味が込められているのではないだろうか、と思うのです。
この福音書を書いたマタイは、イエスさまの誕生を次のように記します。
最初に父親ヨセフから、そしてまた、その時代の王さまからも受け入れてもらえない存在として、イエスさまはベツレヘムに誕生しました。そして、誕生を祝う最初の礼拝者は、東方出身の異邦人、しかもその職業は占星術でした。ユダヤ人として、祝福を受けられない条件を全部備えたような不思議なほどに的を外した人々が、最初の礼拝者として招かれたのです。そしてまた、その後、幼子イエスは命を狙われ、殺害を避けるためエジプトに逃亡し、政治難民として、言語の苦労、文化の苦労の生活が始まるのです。
このように記したマタイが、この福音書の冒頭に示すのがあのカタカナの並ぶ系図です。この系図の中に、本来ならば「ユダヤの系図」には出て来ないはずの「女性の名前」が、それも4人の名前が含まれているのです。「タマル」、「ラハブ」、「ルツ」。そして「ウリヤの妻」です。サムエル記によれば、「ウリヤの妻」の名前は「バテシェバ」です。
「タマル」は遊女の格好をして義理の父ユダを誘惑し、子をもうけた女性です。「ラハブ」はエリコの町に住んでいた正真正銘の遊女でした。「ルツ」はイスラエルの民が結婚を禁じられていたモアブ民族出身の女性です。そして、「ウリヤの妻、バテシェバ」は、夫の留守中にダビデとの間に関係を結び、子をもうけた女性でした。この4人は律法においても、また常識の秤にかけても特別な人たち、明らかに罪人と言われる人々でした。
イエスさまの露払いとして生きた洗礼者ヨハネは、「生まれながらのアブラハムの子孫である」と鼻高々に誇っているユダヤ人に対して、「神さまは石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがお出来になる」と断言しました。マタイはそのことを伝えようと、この系図から書きだしたのではないかと思います。
そう言えば、マタイ自身も元徴税人、彼自身がイエスさまに拾われた「石ころ」のような人でした。本来ならばイエスさまの系図から取り除かれなければならないような「パン種」、人々から避けられるような存在であったにもかかわらず、神さまはそうなさらなかった。むしろ、そのような人々のため、十字架の贖いによって、罪という毒を全部、ご自身の身に受けてくださった。マタイは、系図に1人ひとりの名を書きながら、自分を救ってくださった、そのお方に心からの賛美を捧げていたのではないでしょうか。
人々から捨てられ、避けられる「パン種」のような者の中に、実は天の国の萌芽が隠れている。「毒麦」を忍耐して待ってくださる神さまによって、天の国は始まっているのです。
そこに希望を抱き、そうしてくださる神さまに信頼して歩むようにと、神さまは私たちを導いてくださっているのです。お祈りします。

※11時礼拝で「3サトン」は「約400リットル」とお話ししましたが、「約40リットル」の誤りでした。先週講壇では訂正させていただきました。