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何をして欲しいのか? と聞かれたら

2017年10月8日
松本雅弘牧師
マタイによる福音書20章20~34節

Ⅰ.親の願いの背景にある価値観

イエスさまから「何をしてほしいのか」と聞かれたら、皆さんはどうお答えになるでしょうか? 私たちは、誰もが幸せを願っています。親でしたら子どもの幸せを願うものでしょう。
そして、しばしばその願い、期待の裏側には、その人の価値観が反映されています。それは、生きる上で何が大切なのか、どのようなことが幸せにつながるのかという、その人の考え方です。

Ⅱ. 何をして欲しいのか?

イエスさまが都エルサレムに向かって旅をしていた時でした。ゼベダイの息子たちの母親がやって来ると、主イエスは彼女に対して「何が望みか」と質問されました。
そして、ここには、もう1つの話が出て来ます。道端に座っていた2人の盲人が、イエスさまが来られたことを知ると急に立ち上がり、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び始めたのです。主イエスは、その2人に対して「何をしてほしいのか」と問われました。
「問いかけ」られることは、私たちにとってとても大事なことです。
私は、子どもや家族のために、私自身のために、何を願っているでしょうか。何を求めて生きているのでしょうか。
ここでは、母親も盲人たちも、主イエスに「何をしてほしいのか」と訊ねておられますが、興味深いことに、その結末が正反対なのです。母親の願いは退けられたのに対し、盲人たちの願いは叶えられました。
退けられた、この時の母親の願いは一言で表現すれば、息子たちが「人よりも偉くなること」だったのです。イエスさまはこれに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と言われています。
「目を開けていただきたい」という盲人たちの願いは受け入れられたのですが、母親に対しては退けられました。一体、この違いはどこにあるのでしょう。

Ⅲ.問われる価値観

こんな話があります。一人の男の子がいました。
お父さんは一流大学を出て一流会社に勤務し、その会社でどんどん出世していきました。典型的なエリートサラリーマン家庭です。母親はそうした夫を誇りに思っていましたので、息子に対して、父親のようになることを期待して育てました。
その結果、「勉強して、お父さんのように偉くなりなさい」が、母親の口癖となりました。小学生のその子はお母さんのことが好きでしたから言われるままに勉強に励みました。
ところが、中学生になって躓きを覚え、勉強することに意味を感じなくなりました。それだけではありません。母親にも暴力を振うようになったのです。彼はとれも荒れました。
丁度その頃に、弟が生まれることになりました。両親は期待外れの長男に代って、この次男へ期待を寄せていきました。
でも、その赤ちゃんは重度の障碍を持って生まれてきたのです。一日中よだれを流し、笑顔も見せず、ただ天井を見上げて寝ているだけでした。母親は失望し、次第に赤ん坊の存在をうとましく思うようになり、ベッドも汚れたままに放置されるようになりました。
ところが、母親はある日思いがけない光景を目にします。長男が、赤ん坊のベッドのそばに居て、タオルでよだれを拭いているのです。拭いても、拭いても流れ出るよだれを、忍耐強く何度も何度も拭き続けているのです。
母親は、さらに驚くべきことを目撃します。それは、荒れて、キレていた長男が赤ちゃんに向かって微笑んでいるのです。あやしているのです。そして何と、赤ちゃんの顔にも、母親の自分が見たこともないような微笑みがこぼれていたのです。
彼女は大きな衝撃を受けました。長男のためにと思って、「勉強して、偉くなれ」と言い続けてきた。でもその結果、長男の心を滅茶苦茶にしてしまった。そしてまた、期待することができないことが明らかな赤ん坊の存在自体をうとましく思ってしまう自分がいたのです。赤ちゃんからも微笑んでもらえない母親になってしまっていたのです。
そういう自分の誤り、行き詰まりに気づかせてくれたのは、手におえなくなってしまったと思っていた長男でした。
母親は長男に言いました。「お母さんは、とっても大きな間違いをしていた。気づかせてくれて本当にありがとう。本当にごめんなさい」と。
昨年から高座教会ではマリッジ・コースというカップルを支える学びを開始しました。そのテキストに、子どもに対して、親や家庭が提供できる良いこと、親や家庭の役割が基本的に4つあると書かれています。
1つは、「衣食住のような、子どもが感じる基本的ニーズを満たすこと」、2つ目は「子どもたちに楽しみ、喜びを提供すること」、3つ目は「してもよいことと、してはいけないことのガイドラインを提供すること」、そして最後4つ目は「人間関係の築き方を教えること」とありました。
これらが、親や家庭が提供できる基本となるというのです。その理由は、子どもの幸せな成長にとって、この4つが土台となるからです。
「偉くなること」、「よい成績をとること」が目標となる家庭でしたらどうでしょう。本来家庭が子どもたちに提供しなければならない大切な4つの内の1つも十分に満たされないのではないでしょうか。

Ⅳ.何をして欲しいのか?

子育てを例に考えてみましょう。子育てにとって本当に大事なこと、それは、幼児の内から色々なことが良く出来ることであり、学校に行ったら良い成績で、良い学校に進むことであり、名前の通った会社に就職し、安定した生活ができることでしょうか?
勿論、そのようなことも、また経済的な安定も、とても大切なことです。ただ、それら1つひとつを獲得できたとしても、あの年の離れた2人兄弟の家庭は本当の意味で幸せだったのだろうか? あるいは、あの家庭の父親は、母親が言うように、本当に「偉い」のでしょうか?!
先日このような言葉に出会いました。「今、あなたが子育てでしていることや、その中で考えていることは、あなたが老後を迎えた時に、そっくりそのまま、あなたが、我が子からどう扱われるかという形になって返って来るものなのです。自分の老後をどのように扱ってもらいたいかの答え作りを、実は今、している。それが子育てというものなのです。」
子育て真っ最中の方たちにとっては、自分の老後を考える以前に、今、実際に目の前にいる子どもとのかかわりで、精一杯でしょう。
ただ、色々なものを買い与えられ、色々な習い事で明け暮れし、友だち同士、また人との心の通い合いもない子ども時代を過ごせば、たぶん、その子は老後を迎えた親に対しても、お金で色々と買い整えてあげることこそ、親孝行の最良の方法だと思うことでしょう。
そして、そのためにお金が必要。だから、そのためには偉くならなくては、と忙しい毎日を送ることになることでしょう。それが本当の幸せなのだろうか、と思います。
今日のイエスさまの「何をしてほしいのか」という問いかけは、そして、先ほど紹介した家族の話は、人の価値、子どもの価値って何なのかを、もう一度、私たちに考えさせてくれます。
先ほどの話に出てくる父親と母親にとっての「偉さ」の基準は、人の上に行くことでした。勉強の成績も、学校も勤め先も役職も、全て人よりも上であることが価値あること、「偉い」ことでした。でも、その偉いことで、この家庭は幸せだったでしょうか? そうではなかったと思います。
逆に、中学生になったこの長男は、彼の両親に別の「偉さ」、「尊さ」があるということを教えてくれたように思います。
重い身体障碍の弟のベッドのそばで、繰り返しよだれを拭き続ける。これは人の上に行くこととはまったく逆方向にある「尊さ」を示しているように思うのです。
2人の息子の出世の願いを叶えてもらえなかった母親に対して、イエスさまは何と言われたでしょうか?
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように」
先ほどの家庭の話も、そしてこのイエスさまの言葉も、上に行く「偉さ」とは別に、下に行く「偉さ」があること、しかもその下に行く「偉さ」の方がずっと価値が高いことを私たちに教えているのではないでしょうか。先ほどの話のお母さんが知ったのはこのことでした。
上に行く「偉さ」は、みんなをダメにするかもしれない。でも下に行く「偉さ」はみんなを生かすことになるのです。
イエスさまは、私たちに「何をしてほしいのか?」と訊ねられます。
この問いかけに、一度、立ちどまり、私たちが求めているものの先に、本当の幸せがあるのかどうか、神さまの前に吟味させていただきたいと思うのです。
お祈りいたします。