2017年10月15日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一
12章14~27節
Ⅰ.決して言ってはならない言葉
「おいちゃん、それを言っちゃおしめえよ」というフーテンの寅さんの有名なセリフがあります。皆さんは、「あの時、あんなことを言わなければよかった」とか、「あれは絶対言っちゃいけない言葉」だったなどと、その事を思い出すと、今でも悔やまれるという経験はないでしょうか。
今日は説教のタイトルに「決して言ってはならない言葉」と付けました。実は、聖書の中にも、「それを言っちゃ、おしめえよ」に相当する言葉が紹介されています。それは21節に出てくる「お前は要らない」という言葉です。
Ⅱ.要らない人などない
パウロは、人と人とのつながりのことを人間の体にたとえて説明しています。そしてその交わりを形作る個々の人を、体を構成する器官にたとえています。そうした上で「体の中でほかよりも弱く見える部分」に向かって「お前は要らない」とは決して言ってはなりませんと戒めているのです。このことは教会の中の交わりだけではなく、人として、私たちが他者と絆を深めていく上で本当に大切なことなのではないでしょうか。
私はこの箇所を読むたびに眉毛のことを思い起こします。子どもの頃、朝起きて眉毛を書いていない母親の顔を見て、「あれ?」と思ってしまうことがありました。また、弟が母親の安全カミソリでいたずらして自分の眉毛を両方ともそり落としてしまったことがありました。顔の表情が全く変わっただけでなく、遊んでいると汗が直接目に入ってくる、ということで、弟は泣きながら訴えていたことを思い出します。こんな経験は私だけのものかもしれませんが、あってもなくてもいいように思ってしまう眉毛1つ取ってみても、その眉毛をほんの少し変えるだけで顔の雰囲気全体が変わってしまう。そしてそれだけではなく、実際におでこを伝って流れてくる汗を、眉毛が防波堤のように機能して、大切な目をしっかりと守っている。専門家に言わせれば、この眉毛にはもっと他にも大切な役目がたくさんあるのかもしれません。
このように考えて来ますと、体には全く無駄というものがありません。ですからパウロは、ここで、人と人とのつながりを人間の体にたとえて、人は誰ひとり「要らない」と言われるような存在はないのだ。だから「お前は要らない」とは、決して言ってはならない言葉だ、と戒めているのです。
でも、現実の生活においては、何か問題が起こると心の中で〈お前は要らない〉という呟やきが出てくるのではないでしょうか。〈問題を起こしたお前なんか、もう要らない〉。
次に、別の人が何か仕出かした。すると今度はその人も要らなくなる。そのようにしていくと、最終的には誰も要らなくなってしまいます。そして最後の最後に、〈お前は要らない〉〈そっちのお前も要らない〉と、批判力旺盛な目をもって周囲を見ている、一番自己中心で高慢なこの私だけが残るのです。そこには救いはありません。
周囲の人を見て〈お前は要らない〉との思いが心に起こって来たならば、それは神さまから出てきた思いではない、ということです。神さまからの思いならば、私がその人の問題に共感するように、そして〈私はこの人のために何ができるか〉と、その人に仕えるようにと導かれるからです。
〈お前は要らない〉とはサタンからの囁きです。しかも〈あの人は要らない〉と思わせるだけではなく、サタンは〈この私も要らない人間なのだ〉と思わせてしまうのです。〈私も価値のない人間なのだ。生きていてもしょうがない。何をしても失敗する。こんな私を誰が大切にしてくれるだろうか。だれもいやしない〉。そこまで持って行こうとするのがサタンの狙いです。
しかし、聖書の視点で考えるならば、イエスさまというお方は全ての人を祝福したいと願っておられ、〈あの人は要らない〉と思われる人のために、〈自分自身も要らない〉と思う私のために十字架にかかられたのです。
Ⅲ.神は私たちをどう見ておられるのか
ある時、イエスさまはたとえ話をされました。「『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」(ルカ15:4-7)
ここでイエスさまは、神さまのことを「見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し求める羊飼い」にたとえてお話になりました。「見失われた」、別の表現を使えば「迷子になった」この羊は、どちらかというと自分のせい、自分の愚かさの故に迷子になってしまったのです。
でも神さまの側からすると、そのような羊であるにもかかわらず、「見つけ出すまで捜し回るほど」、いなくなっては困る尊い存在なのです! ある人は思います。「百匹もいるんだから、一匹くらいいなくなってもいいでしょう。百分の一に過ぎないのだから」、と。しかし、イエスさまが例に挙げた当時の羊飼いたちはそうではありません。彼らは羊一匹一匹に名前を付け、自分の子どものように大切に世話をしたそうです。
我が家にも「コロ」という名前の犬がいます。時々、いたずらをしたりします。そんな時は、名前を呼んで叱るわけですが、そのコロに向かって間違えて、「光也!」と息子の名で叱ってしまうことがあります。逆に、息子に向かって「コロ!」と呼びかけてしまったこともあります。犬を飼って初めて知ったのですが、家族の一員のような存在です。ましてや当時の羊飼いと羊の関係は運命共同体のような関係だったと思います。その羊が1匹でもいなくなったら、見つけ出すまで捜すでしょう、とイエスさまは言われるのです。このたとえ話を聞いていたユダヤ人たちはみんな、「そうだ、そうだ」と頷きながら聞いていたことだと思います。
1人の人が失われる。1人の人が居なくなる。それは神さまからすると大きな喪失、痛みが伴う悲しみだ、とイエスさまはおっしゃるのです。
悲しみの理由は、羊に対する羊飼いの愛、神さまの愛の心です。逆に、見つけることが出来たら、大きな喜びです!
ある小学校に手を焼く子どもがいたそうです。ちょっとしたことで騒ぎ、席を離れ、暴れ、部屋を飛び出してしまう。担任の先生は、1年間かけてこの子のことをよく知り、研究したいと心に決めて、お世話になった大学の先生に相談に行きました。大学の先生は「まずは、その子の行動をよく観察するように」とアドバイスをしたそうです。
担任の先生は、そのアドバイスを元に、観察を開始しました。自分1人では目が届かないと考え、学校中の先生たちにお願いし、情報を寄せてもらうように頼みました。「〇〇君が廊下の窓から外を眺めていた。何を見ているのかと思って横から見ていたら、外の木に鳥が止まっている。それを見ているようだった」。
そうした情報が来るたびに、それを全体の教師会で分かち合っていきました。すると、どうでしょう。観察を開始して間もなくして、その子に変化が起こって来たのです。以前のように暴れたり跳び出したりがなくなってきました。1年間かけて取り組もうとしていたこの研究は、始めた途端に、もうその必要はなくなってしまったそうです!
先生の研究が始まって、この子の周りに起こったことって何だったのでしょう? それは、その子に関心を持ち、関わるようになったことでした。教師たちが自分に目を向け、心にかけてくれるようになったことを、彼は感じ取ったのです。すると間もなく、その子の行動が安定して来たのです。それ以前は、その子が落ち着いている時には教師は注目せず、騒ぎを起こした時にだけ目を向けて叱っていたのです。
Ⅳ.あなたは神に捜されている
私たち大人は、このような状況に出くわすと、「この子をどうしょう?」と考えます。それも困ったことをする時ばかり・・・。でも子どもが求めていたのは、「ボクに注目して。ボクをよく見て!」だったのです。
大人がそれに気づいて応答してくれたら、子どもは変わる。そうです。聖書は、要らない人など1人もいない。だから、口が裂けても「お前は要らない」などと、決して言ってはならないと教えています。いやむしろ、神さまが本当に知ってほしいこと、言いたいことがあるのです。それは、「あなたは神に捜されている。」「あなたは大切な人です」ということです。
「あなたは神に捜されている」、「あなたは大切な人」。この神からのメッセージをしっかりと受け取る時、私たちは初めて変わってくる、変わることができるのです。神はあなたを愛しておられます。
お祈りします。