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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

しっかりとした土台のある人生

2017年10月22日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マタイによる福音書7章24~27節
ルカによる福音書19章1~10節

Ⅰ.価値観とは― 家と土台のたとえから

ある時、イエスさまは建物と土台のたとえ話をなさいました。
2つの新築の家がありました。2つとも見た目には立派な美しい家です。ところが、災害が襲ってきた時に片方は守られ、もう片方の家は倒壊し、しかもその倒れ方がひどかったのだと語られたのです。
ここでイエスさまは人生を「家」にたとえて話されたのです。どんな家にも例外なく雨が降り、川が氾濫し、風が吹きつけるような「逆風」の時があるのです。逆風とまでは行かなくても、節目を迎える時があるでしょう。ただそれによって受ける影響の度合いは異なるのです。片方の家は守られ、もう片方の家は倒れてしまうのです。
ではどこが違うのか? イエスさまの答えは「土台が違うからだ」というものでした。
普段は隠れている土台です。だから、何もない時には意識されません。でも人生の節目節目に、例えば進路選択、結婚、子どもが誕生し、子育てや教育の問題、大きな買い物をする時にも、「土台」すなわち、その人の物の考え方、価値観が問われます。
そのように、人生を支える土台となるような価値観とは、いったいどこから来ているのでしょう。

Ⅱ.心の物語を書き換える

あるクリスチャンが語った言葉を思い出します。「考えという種を蒔けば、行動という実を刈り取り、行動という種を蒔けば、習慣という実を刈り取る。習慣という種を蒔けば、品性という実を刈り取り、品性という種を蒔けば、運命/人生を刈り取る。」という言葉です。
私たちの行動の背後には、何らかの物の見方や価値観、「心の物語」が働いています。物事をどう見ていくか。それらが変わらなければ人は変わらないのです。「心の物語の書き換え」が起こらなければ、私たちの人生は変わりません。聖書には、キリストとの出会いを通して変えられた人がたくさん出てきます。その中の一人がザアカイという人です。

Ⅲ.ザアカイとイエスとの出会い

ザアカイは、エリコ在住の徴税人の頭でした。ローマ人の信頼を勝ち得ていた反面、地位を利用して私服を肥やしていたようです。
ところで、福音書はザアカイの身体的な特徴を伝えます。「背が低かった」のです。「背が低かった」がゆえに、ある種の劣等感を持っていたかもしれません。そして、彼はそれをバネにして生きていたのではないかと想像されます。
そのような彼にとっては、「お金が私を幸せにする」という価値観が支えとなっていたのではないかと思います。
しかし、「お金持ちになりさえすれば慕われ、友だちも増え、心にも満足が得られる」という物語が、実は「偽りの物語」であることに、ザアカイは薄々気付いていたのです。何故なら、彼は孤独だったからです。いくらお金を手に入れても幸せを感じない。頑張って来た結果、徴税人の頭にまで出世した。しかし出世に反比例するように、仲間は彼から離れて行ったのです。
この時、イエスさまは、失われた羊を捜すようにして、ザアカイに出会ってくださったのです! 彼に向かって「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい!」とおっしゃったのです! もう興奮し、混乱し、何が何だか分からなかったと思います。
今までは、金持ちになれば世間は自分を認めるだろうと思っていました。でも、その逆です。ザアカイにとって世間は物凄く冷やかでした。冷たかった。彼は孤独でした。
でも冷静になって考えてみれば当然です。「どのように生きるか」ではなく、「何をどれだけ手に入れたか」という観点から成功を計ろう、と考えていたのです。だから、場合によっては手段を選ばなかった。ですから誰からも尊敬されないし、慕われません。それどころか、みんな自分から離れて行ってしまいました。本当に寂しい思いで生きていたザアカイでした。
ところが、です。何と、いちじく桑の葉陰に隠れていたところを発見され、離れていたところから呼び出されてしまったのです。
ザアカイは、イエスさまに認めてもらうために木登りしたのではありません。背が低く見えないと困るので、いい歳をして木に登ったのです。ですから、どちらかと言えば、そんなことをしている自分を見つけてほしくはなかったでしょう。
でもイエスさまはそのザアカイを見つけられました。そしてザアカイの家の客となったのです。
この時代、ユダヤ人にとって、主イエスのような聖書の教師を客としてお迎えすることは最大の栄誉を意味していました。誰もが、イエスさまを自分の家の客としてお泊めしたいと思っていたのです。
そのイエスさまが、よりによってエリコで一番の嫌われ者の家の客となった! それは全ての人の期待を裏切ることでした。ですから、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と、みんながつぶやいたのです。
でも、ザアカイにとって、人が何と言おうと、そんなことはどうでもよいことでした。彼は生まれて初めて無条件の愛というものに触れたのです。モノでは満たされなかった大きな喜びを、主イエスとの出会いを通して経験しました。主イエスは、そのザアカイをご覧になり、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言されたのです。

Ⅳ.しっかりとした土台のある人生を選び取る

いかがでしょうか? イエスさまとの出会いは、ザアカイの人生に大きな変化をもたらしました。大袈裟な言い方かもしれませんが、彼の全てを変えてしまったのです。
ユダヤ人の宗教哲学者マルチン・ブーバーは、『我と汝(私とあなた)』という本を書いています。ブーバーによれば、私たち人間は大きく分けて2種類の関係の中で生きていると言います。「私とあなたの関係」と「私とそれの関係」です。
人間である「私」と、人間である「あなた」との関係を「私とあなたの関係」と呼び、また一方で、人間である「私」は食べたり飲んだり、また生活するのに様々な道具や物を使って生きています。その「モノ」との関係を「私とそれの関係」と呼んでいます。
当たり前ですが、人間は、「それとの関係/モノとの関係」なしに生きることはできません。生きるためには、多くのモノを必要とします。着物、食べ物、住む場所など。健康を維持し、良い働きをなし、また人生を喜び楽しむためにも、ブーバーの言う「それ」は大切な意味を持っています。
しかし、もう1つの側面がある。それはいかにモノに恵まれ、モノを自由に使えるようになったとしても、この人生に「あなた」と呼ぶ相手、つまり「私とあなた」という人格的な関係がなければ、本当に味気ないものになってしまう。
ザアカイは、主イエスという「あなた」との出会いを通し、初めて、モノでは満たされない心の中の渇きを癒されたのだと思うのです。
その証拠となる言葉が8節に出て来ます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。
今まで、何よりも誰よりも大切であったお金。その半分を貧しい人々に施す、と告白しているのです。そのために生きて来たような男です。「お金が私を幸せにする」、「どれだけ富を築いたか」で成功を計ってきた男にとっては、「どう生きるか」なんて関係ありませんでした。
ところが、どうでしょう。彼は、だまし取ったことを悔い改め、しかも旧約聖書の律法の要求に従った償いを約束したのです。
ザアカイは変えられました。新しい人にされました。それは主イエスとの出会いによって、一番大事なお方との出会いを通して、彼自身の価値観、物の考え方が改まっていったからです。彼は、人生にイエスさまという確かな土台をいただいたのです。
聖書に次のような言葉があります。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(新改訳―Ⅱコリント5:17)
私たちは過去を変えることはできません。過去の出来事は石に刻まれたもののようで、やったことをやらなかったことにすることは出来ません。でも、これからどう生きるかについては、私たちの選択にかかっています。
主イエスは言われます。しっかりとした土台のある人生を選び取りなさい、と。
ぜひ、聖書の言葉を、また言葉ご自身であるキリストを人生の土台とする生き方を選び取っていただきたいと願います。
お祈りいたします。