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主日共同の礼拝説教

神の望みに生きるー キリストを知り、キリストを伝えるために

2018年1月7日
松本雅弘牧師
イザヤ書55章6~11節
フィリピの信徒への手紙2章12~13節

Ⅰ.霊的生活の第一歩としての神の愛を知り、神の望みに生きること

「エクササイズ」を始めてから、神を知ることと神について知ることの違いについて繰り返し学んできました。
実際に神さまを知らなくても、神について多くを語ることが出来ます。ちょうどリンゴを味わったことがなくても、リンゴに関する知識を豊富に持ち、様々な角度から人に教えることが出来るようにです。でもリンゴを味わった時に、初めてリンゴの何たるかを知ることができるのです。リンゴならば、それを食べればよいのですが、神を味わうにはどうしたらよいのでしょう。
神に関して知ることから、神を知ることへ、この大きなギャップを超えるために出来ることは何でしょうか。それは、聖書を読むこと、そして日々の出来事を通して生活の中で神さまを知ろうとすることです。
その第一歩として大切なことは、神さまの愛を知ること、そして神さまの望みを知ることです。そのことに注目したいと思います。

Ⅱ.神の愛を知る

神さまの愛を知るという時に、聖書が大切な点として教えていること、それは、私たちが神を愛する前に、神が私たちを愛しているという事実です。この事実に気づくことが信仰生活の中で最も大切なことであり、信仰生活の基本の基本といえます。
使徒ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)と語りました。
私たちの方から神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。それで初めて私たちも愛ということを知ることが出来たのです。ただ残念なことに、私たちには、神がどれほど深く、私を愛しておられるか、その実感がないのです。そうした課題が私たちの側にあるのです。
アダムとエバが神に対して罪を犯した出来事が創世記3章に記録されています。その結果、神との関係が切れてしまいます。さらに、アダムとエバの関係が崩れ、自分自身との関係もおかしくなったのです。
その結果の象徴的出来事が「いちじくの葉っぱ」です。造られたままの姿の自分を受け入れられなくなってしまったので「いちじくの葉っぱ」で見栄え良くしたのです。このように「いちじくの葉っぱ」は、罪によって命の源である神さまとの関係が切れた人間の心に、自己不信と自己嫌悪の心が生じたことの象徴でもあるのです。
私たちが、自分自身をそのままの姿で愛することが出来るならば、もっと自由に自己表現できるでしょうし、自分のことは神さまにお任せし、必要なことに力を注ぐことができるはずです。けれども神さまとの関係が切れている私たちは、そうした生き方ができないのです。
こうした生き方から解放されるためには、本当に愛してくださっている神を知ることです。私の友人が「人間の最大の悲劇は神さまの愛に気づいていないことに尽きる」と語っていましたが、正にそうだと思います。
私たちは、愛されることに素直になりたいのです。自分は神に愛されてよい存在なのだということを素直に受け入れたいと思います。
聖書を読むと分かるのですが、神の愛は、私たちが良いことをしたからご褒美としてもらうものではありません。逆に、悪いことをしたからもらえないというものでもないのです。善くても悪くても神は100%、この私を愛してくださっているというのがアガペの愛です。
私たちの住む社会は、ギブアンドテイクの社会、それが当然と思っている私たちがいます。ですから無条件の愛はなかなか信じられません。しかし、神さまの無条件の愛を本当に知ることができたら、私たちはどんなに楽になることでしょう。神さまから愛をいただき、それによって人を愛することができるのです。私たち自身も、愛する人に変えられていくはずです。このように、神を知るということは、具体的には「神の愛を知る」ということなのです。

Ⅲ.神の望みに生きる

私たちが生活の中で神を知ろうとする時に、もう一つ大切なことは、「神さまの望みを知る」ことです。別の言い方をするならば、神に何を願い、何を望むか、ということです。
誰もが様々な抱負を持ちながら新しい年を迎えたことだと思います。そして様々な祈りをささげ、神さまにお願いをします。受験を控えている若者たちの心の中にある祈りは、「希望の学校に合格できますように」というものでしょう。病と闘っている方たちは回復を祈るでしょう。
仕事がうまくいきますように。希望の学校に合格しますように。健康が守られますように。そうした一つひとつの願い事はとても大切なものです。
このようにして、私たちが神に思いを向ける時、実は神の側にも私に対する願いがあることを知らされるのです。その時、私たちクリスチャンにとって大切なことは、その神さまの願いに気づくかどうかです。私たちの神への願いが、神のみ旨にかなう願いや望みであるかどうか、ということ。このことが大切なポイントです。
教会史のなかに偉大な信仰の先輩たちがいますが、彼らに共通していることは、神のみ旨にかなう望みを抱いて生きていたということです。
歴代誌下16章9節に「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」とありますが、私たちがみ旨にかなう望みを抱く時、神はその望みにかなう「力づけ」を与えてくださるというのです。神のみ旨を望むならば、神は、その望みを叶えるために恵みと霊性を整え、私たちを用いてくださるというのです。
私たちが神に何を望んでいるのか、神の望みを自分の望みとしているかどうか、それが大事なことです。何を願い、何を望みとするかという視点から考える時、神を知ることは、「神の望みを知る」ことだとも言えるのです。

Ⅳ.神に聴くこと

日頃、私たちは神さまに対して、様々なお願いをしています。それは大切なことです。ただ神さまの側にも私たちに対して願っておられることがあるのです。時に、私たちの祈りが自分の利益ばかりを求める、独りよがりの祈りになる可能性が大いにあります。
祈りを通して神さまと交わることで、私たちに何が起こって来るのでしょうか。私たちは、祈りの中で、私たちの願いや望みが、神さまの願いと望みに近づいて行く経験をしていくのです。そしてそのために大切な姿勢、それは神の望みを聴くことです。何故なら、神に聴くことなしに、神に従うことはできないからです。
ですから、問題は神のみ旨をいかに聴き、いかに知るかということです。ただ、この場合注意しなければならないことがあります。それは実際に音声で聞こえるようには神が語られるのではなく、聖書の言葉を通して、あるいは周囲の人々を通して、また自然界や、日常のささいな出来事を通して、神は私たちに語りかけておられるお方だということです。
したがって私たちは、まず神さまに心を開き、少年サムエルのように、「主よ、お語りください。しもべは聴きます」という素直な心、へりくだった思いで聞くように心がけることが何より大切なことなのです。神は、私に何を語りかけようとしておられるのか。毎日の出来事に注意深くなるように心がけることです。
様々なお願いをする前に、自らの生活を振り返り、その日の出来事を通して、神は何を私に伝えようとしておられるのか、心を開いて聴くことです。神に感謝すべきことはあっただろうか。また逆に、神の御心に痛みを与えるような言動はなかっただろうか。感謝すべきことがあったなら感謝をし、痛みを与えるようなことがあったならば、それを告白し、赦していただくのです。
こうした日々の積み重ね、神さまとの交わりを通して、そのお方の望み、私に対する願いが次第に絞られてくるのです。
一日を終えて寝る前の5分、1日を振り返る祈りをすることは、喜びある信仰生活を送るためにとても大事な習慣です。
主イエスは「羊は羊飼いの声を聴き分ける」と言われました。ですから道に迷ってどちらかに行けばよいか分からない時、まず立ち止まって、イエスに尋ねるのです。そうすれば、必ず何らかの方法で答えてくださいます。
私たちは、音声によって神の声を直接聞くことはできませんし、神の御姿を見ることもできません。それでも神に近づくことが出来るように、イエスさまが与えられているのです。そのイエスさまが何を語り、どう行動されたのか。そこにこそ神さまの望みがはっきりと現されています。主イエスの言葉と行いの中に神の望みを聴くことができるのです。
そのような意味で聖書、特に福音書はとても大事です。新しい年、御言葉に聴きつつ、日々の生活の中で神さまを知り、神さまが私のために持っておられる望みに生きる歩みを求めていきましょう。
キリストが恵み深いお方であることを深く知らされることによって、このお方を証しする者として、私たちは神さまに用いていただくのです。
お祈りします。