2018年1月14日
松本雅弘牧師
創世記2章18節
ローマの信徒への手紙15章1~6節
Ⅰ.ある園長先生の経験
今日の礼拝は、今年成人を迎えられた方たちの祝福を祈る礼拝でもあります。創世記2章18節、ローマ書15章から聖書の教える人間関係について、ご一緒に考えてみたいと思います。
ある園長先生がこんな経験を綴っていました。A子さんは門限に遅れ、両親に叱られたことがきっかけで家出をしました。そして東京について、「先生、私のこと、覚えている?」と電話をかけてきたのです。泊まる所もないと聞きタクシーで駆け付けました。
「絶対に帰らないから」と言うA子さんと両親との関係は、その後5年間、大変な道を歩んだそうです。しかし幸いにして素晴らしい男性と出会って結婚し、ある時、可愛い赤ちゃんを抱いて訪ねて来たのです。「ほら、このおじいちゃんがいなかったら、お前の命はなかったんだよ」と、赤ちゃんを園長先生の膝に乗せて言いました。そして、「あの時、両親に叱られているところに、祖父母までが一緒になって怒ったから…」と、ポツリと言いました。家族の中で、皆に負けて、勝てる相手が1人もいなかったことを改めて感じたのだそうです。
Ⅱ.私たちの関係
私たちの家庭にはどのような人間関係があるでしょうか。創世記に、「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」(創世記2:18)とあります。
神さまがお考えになって、アダムとエバとを出会わせてくださったのです。ここには、出会うこと、そしてもう1つ、人間の在り方としての大切なこと、「助ける者」として私たち人間は、造られていることが書かれています。別の言い方をすれば、私たち人間は他者に仕える存在として生きることが求められているということでしょう。
今日は、ローマの信徒への手紙15章も読ませていただきました。ここでは、パウロの言葉をもって、私たち人間の「助ける者」としての生き方が語り直されています。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」
(15:1)
「強い者」の強さを、自己を喜ばせるために用いることがあってはならない。その強さをもって、弱い者の弱さを担い「助ける者」として生きる生き方を、パウロはここで説いているのです。
Ⅲ.グー・チョキ・パーの人間関係
先ほどの園長先生は、聖書から、私たちの家庭にとって必要なことは「グー・チョキ・パーの関係だ」と提言していました。
「グー・チョキ・パーの関係」とは何でしょう? 例えば祖父母、両親、子どもがいると、祖父母は孫に負け、両親には勝つ。両親は祖父母に負けるが、子どもには勝つ。子どもは両親には負けるが祖父母には勝つ。これを家族の中の「グー・チョキ・パーの関係」と言い表していました。
よく考えてみると、これは祖父母、両親、子どもの関係だけではなくて、場合によっては、職場の人間関係にも当てはまるのではないでしょうか。しかもこの関係は、ある意味で、本当に実際的な平等の関係でもあるように思うのです。
ところが、現実の人間関係はなかなか平等になりにくいのです。創世記によれば、元々神さまは男女の関係を、また人間関係一般を平等に造られました。正確な言い方をすれば、相手に無いものを私が持っていて、私に備わっていないものが相手に備わっている。つまり、お互いの違いは優劣を表すのではなく、相補い合う関係として、人を男性と女性に造られた、と教えます。
ところが、この後、創世記を読み進めて行きますと、人間が神に反逆し、罪がこの世界に入って来て以来、相補い合う関係が持ちにくくなった。さらには、違いが対立の原因になり、違いを見つけると必ずと言ってよい程に、その違いを「優劣という物差し」で計り、どちらが上でどちらが下か、のような人間関係になってきたと教えています。ですから、どうしても命令する者と従う者との関係に固定化されやすくなり、強い者が弱い者を支配するという上下関係に落ち着きやすくなったことを聖書は伝えています。
そのことを創世記3章16節は次のように言い表しています。「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
元々の神さまのご意志は、2人だけの関係であっても、「ありがとう」とか、「ゴメンね」と言う言葉が自然に行き交う関係です。こうした、感謝したり謝ったりすることがあれば温かな家庭になるでしょう。
こうした温かな家庭の中の人間関係が「グー・チョキ・パーの関係」だと、園長先生は言うのです。またこんなことも、言っていました。グー・チョキ・パーの関係は、いつも一方方向に回っているのではなく、時々、逆方向に回ったりもする。そのようにして、その関係はさらに深められていく、と。
幼稚園の中で園長は、普通は教師に勝つものですが、その園の先生方は園長に負けていません。「娘のように」園長に対して遠慮なく小言を言うのだそうです。園長もタジタジになる。一方、園児に勝つはずの教師が、子どもの前で失敗をし、突っ込まれている…、その姿を園長は愉快に見ている、というのです。そうしたことが起こる日々、何か楽しそうです!
家庭の中で、いつも勝っていた祖父母が両親に負けることだって起こるでしょう。昔のことを思い出しますと、子どもながらに、そんな時、そんなことを見てきたのではないでしょうか。
家族の中に「グー・チョキ・パー」があって、時々それが逆方向へ回りだし、そんなことの繰り返しの中で改めて見てみると、欠点が長所に見え始めたりする。これまでと違った思いで受け取り、温かく見え始めたりもするのです。家族の見え方が違ってくることで、楽しそうで温かい雰囲気の家庭、心の絆の豊かな家庭がそこに現われてくるのではないでしょうか。
Ⅳ.聖書が教える親子関係
イエスさまもご覧になるお方です。聖書によれば、38年間も病に苦しむ男の表情、彼の着ている服など、ひと通り見た上で言葉をかけておられます。イエスさまの眼は粗探しをする眼ではなく温かく慈しむ眼です。
私の友人の牧師が、ある時「眼差しには力がある」と語っていました。私たちは、このイエスさまの温かな眼差しを受けながら歩む時に、身近な人間関係の中で、自分の立派さや真剣さを認めてもらう誘惑から自由にされて、助け、助けられる関係へ、勝ち負けから解放された、生き方へと導かれていくのです。
神さまの愛の眼差しを受けながら生きたイエス・キリストは、徹底的に仕える生き方を選び取ってくださいました。そして、イエスさまが生きられた、そのような生き方を祈り求めて行くことが、本当の意味で私たちの幸いにつながる生き方であると聖書は教えるのです。
ある人がこんな話をしていました。例えば、クレヨンは使えば使うほど小さくなっていきます。でも私たちの力はどうだろうか、というのです。使えば使うほど弱くなるどころか、強くなります。走れば走るほど足は強く、また子どもでしたら速くなるでしょう。考えれば考えるほど、考える力は身につくものです。
「強い人になりたいですか?」と質問されて、「なりたくありません」と答える人はいないと思います。子どもたちもそうでしょう。
ただ、「なんで強くなりたいと思いますか?」と質問されたら、どう答えるでしょうか。強い力で家来を作って、威張るために強くなるのでしょうか。
私は、改めてイエスさまより強い人がこの世にいるだろうかと思います。イエスさまよりも強い人は誰もいません。その強い力で、イエスさまは家来を作って威張っておられたのではなかった。人の喜ぶこと、私たちの喜ぶことばかりをしてくださったのです。
強い力を持った人は、その力で他の人の喜ぶことをする。その人が喜ぶことが本当に嬉しい。それが、とても嬉しいと思う人になっていくこと、それがイエスさまの喜ばれる人の姿であると思うのです。
私たちの中には、恵まれた家庭環境の中にあってというよりも、むしろ、親子の関係の中で様々な葛藤を抱えながら大人になるという、そのような人が少なくないかもしれません。
でも、その背後には神さまがおられ、そうした環境をも含めて、神さまは万事を益としてくださるというのが神さまの約束です。神さまに愛されているということは、ふり返って見る時に、そこに神さまの慈しみがあったことを発見することでもあります。
聖書が教える親子関係とは、まさに、神さまが私を、神さまが私の親を、神さまがその関係をどのようにご覧になっているのか、そのことをもう一度、神さまの視点に立って振り返ることでもあるのです。
私たちは神さまから愛されています。その愛の中で、勝ったり、負けたり、お互いをいたわり合う中で、神さまのくださった関係が深まり強められていくのです。そのことを求めながら歩んで行きたいと願います。お祈りします。