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主日共同の礼拝説教

いかに幸いなことか、 御言葉と祈りで神につながる人は

2018年2月4日
松本雅弘牧師
詩編 84編1~13節
ルカによる福音書10章38~42節

Ⅰ.はじめに

今日は、「御言葉と祈りに生きる」という「信仰生活の5つの基本」の3番目のことについて、ご一緒に学んでみたいと思います。最初に詩編84編を味わうところから始めましょう。

Ⅱ.詩編84編

この詩編は、巡礼で訪れたエルサレム神殿で礼拝する時の喜びを歌った詩編です。「万軍の主よ、あなたのいますところは/どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」(2-3)
11節の言葉も有名です。「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」
ここでこの詩人は、「神の宮の敷居で物乞いとなりたい」と語っているのだと専門家は解釈します。つまり、どんな身分であろうと、主なる神さまの近くに居ること、このことがどれほど素晴らしいことなのか。詩人は、その喜びを歌って詩編を締めくくろうとしているのです。
主もまた、そうした信仰の告白をする者に対して豊かに報いてくださいます。
「完全な道を歩く人に主は与え/良いものを拒もうとはなさいません」(12)。「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は/いかに幸いなことでしょう」(13)と、この詩編は結ばれていきます。

Ⅲ.なんと幸いなことでしょう。心にシオンへの大路のある人は

今日は「御言葉と祈りに生きる」ということを考える上で、特に6節に注目してみたいと思います。「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。」
詩人は、ここでイエスさまの「山上の説教」の語り出しを思い起こさせるような語り口で歌います。
「いかに幸いなことでしょう」と、彼を奮い立たせ、支える力の源泉が、「あなた」すなわち、主なる神さまにある人、その人が幸いなのだと歌っているのです。
新改訳聖書では、「あなたによって勇気を出す人」のことを「その力が、あなたにある人」とし、「心に広い道を見ている人」については「その心の中にシオンへの大路のある人」と訳しています。
この詩編のテーマである巡礼とは、「シオン」すなわちエルサレムを目指しての旅です。もっと言えばそこに臨在される神さまを目指し、神さまと交わることを求めての旅です。
その巡礼の道を「広い道」、新改訳では「シオンへの大路」、そして英語の聖書では「シオンへのハィウエイ」となっていました。「シオンへのハィウエイ」とは面白い表現です。これは、「何かあった時、いつも神さまの許に飛んで行けるような、よく整備された道」という意味でしょう。そうした道を心の中にしっかりと持っている人は何と幸いなのでしょう、と詩人は歌っているのです。
7節には、そうした人に与えられる特別な恵みが出て来ます。その恵みとは、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」という恵みです。
時に私たちは「嘆きの谷を通る」ような経験をします。そのような時に「神さまの許に飛んで行けるような、よく整備された道を心に持っている人」は、その「嘆きの谷を泉とする」というのです。
ただここで注意したいことがあります。それは、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」という言葉の主語です。残念ながら新共同聖書では分かりにくいのですが、原文では、はっきりしています。その人は「心に広い道を見ている人」、「その心の中にシオンへの大路のある人」です。その人が「嘆きの谷を泉とする」のです。
私たち誰もが、「嘆きの谷を通」ります。不慮の病いという嘆きの谷があるかもしれません。経済的な行き詰まりという嘆きの谷もあるでしょう。受験で思うように行かない、進路が開かれないという嘆きの谷もあります。神さまを信じる者、主を信じる者の幸いを歌う、この詩編84編の詩人も例外ではなかったのです。
でも神さまを信じる人は、そうした「嘆きの谷を通る」経験をしても、そこを「泉のわくところ」「泉のわくような経験」に変えることができるのです。
このようにマイナスをプラスにする力が、「心に広い道を見ている人」、「その心の中にシオンへの大路のある人」には与えられる、というのです。
そして、泉ですからオアシスです。私一人の渇きが癒されるにとどまらないのです。人生という旅を共にしている周囲の人たちにとっても、神さまを信じる私の「嘆きの谷を通る経験」が、共に生きる人々の心の渇きや霊的渇きを癒す、豊かな恵みの出来事となるのです。新年礼拝でお話した表現を使うならば、「祝福の源となる」ということです。
私たちは、さまざまなかたちで神さまから恵みをいただいています。祝福を受けています。そして、そうした恵みや祝福は、私だけに関わるものではなく、「それによって」という条件が必ず付いてくると、聖書は理解します。
神さまが私たちを祝福してくださる。「それによって」人々が励まされます。この私に神さまが恵みをくださった、それによって、共に生きる病気の人が支えられ、また、職場に神さまの祝福が届くのだ、というのです。
このような特別な恵みに与る人たち、この人たちに共通する特徴、それは「必要がある時、神さまの許に飛んで行ける」、「よく整備された道を、常に心に持っている」ということです。そして、このことは、御言葉と祈りで神さまにつながっていることなのです。

Ⅳ.神さまのところにすぐに飛んで行ける整備された道

今日は、皆さまに次の2つのことをお尋ねしたいと思います。1つは、「わたしの心には、何かあった時に、すぐに飛んで行けるような、神さまの御前に通じる、真っ直ぐな道が、いつもあるだろうか。」ということです。
そして2つ目は、そうした広い道を持つために、私は何をすべきか、ということです。このことをぜひお考えいただきたいのです。
ある時、イエスさまはマルタとマリアのもてなしを受けられました。最初、台所ではマルタとマリアが料理しています。ところが急にマルタがイライラし始めます。忙しくなってきたからです。そんな時に一緒に立ち働いていた妹が台所から姿を消した。隣の部屋を覗くとイエスさまの教えに頷きながら聞き入っている妹の姿が目に飛び込んできました。その途端にマルタの感情が爆発したのです。
そのマルタに対して主は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われました。イエスさまは、マルタも、一旦、働きの手を休めて、私の前に座って御言葉に聴くことを選びなさいと招かれたのです。
いつもお話することですが、私たちは過去を変えることは出来ません。怒りのあまりに口から飛び出してしまった言葉を、白紙に戻すのは不可能です。ただ、その怒りのままに進むのか、それとも、ハッと気付いたならば、怒りの延長線上の言動ではなく、それとは違ったこと、今までとは異なる道を選ぶかどうか、ということです。もし、この道を選ぶことができたら、全く異なる状況が展開することでしょう。私たちには、そうした選び直すチャンスが与えられていますし、また、そうできる自由が与えられているのです。
ストリートチルドレンのために献身して働くあるシスターの証しを聞いたことがあります。彼女は恵まれた環境で育ち、周囲が羨むような生活をしている人物でした。その彼女が、「どのような家庭に生まれるかということを選ぶことはできません。でも、どう生きるかは選ぶことができる。悪人になるか、聖徒になるかを選ぶことができる。」と、確信をもって語っておられた言葉を思い出します。
イエスさまの言葉を聞いたマルタは「どう生きるか」「何を選ぶか」という選択の場面に立たされました。「マリアは、何て気が利かないんだ。イエスさまもイエスさまだ。」と不機嫌に苛立つまま時間を過ごすことをもできました。しかしそれとは全く違った選択も出来たのです。つまり一旦、働きを中断し、妹の隣に座って主の教えに耳を傾けることも選べました、選べるのです。
私たちの人生も同様です。どちらの道をも選ぶことが出来る。そうした自由が与えられています。そして主は「何かある時に、神さまの許に飛んで行けるように、広い道を、その心の中に持つように」と教えられます。普段から御言葉と祈りを通して、常に主と交わり、主との関係を深め、その交わりのパイプを太くすることを、主は望んでおられます。
そして、その主から、聖書の言葉を通して、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」という具体的な導きをいただいたならば、そちらを選ぶのです。
すぐに選べなかったならば、そのことを祈りの中で主に申しあげ、主から力をいただいていくのです。そのようにして、「御言葉と祈りに生きる」ことを通して主につながり、そのお方のくださる幸いを、共に生きる方たちと一緒に味わう歩みでありたいと願います。お祈りします。