2018年2月11日
松本雅弘牧師
創世記18章9~33節
ヨハネによる福音書15章15節
Ⅰ.「やさしい神さま」
「天にいらっしゃる、やさしい神さま」、この祈りが私にとっての高座教会との出会いでした。1981年12月、学生会クリスマス会での祈りの言葉です。神に向かい、こう呼びかけることは当時の私にとって衝撃でした。
聖書を読む時、神を「優しい」と表現できない場面に出くわします。例えば神の裁きによるウザの死です。「一行がコナンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を抑えた。ウザに対して主は怒りを発し、この過失のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは箱の傍らで死んだ」(サムエル記下6:6、7)。契約の箱を運ぶ時、台車から転げ落ちそうになったので手を伸ばして箱を押さえた。たったそれだけのことでした。また使徒言行録5章に出て来るアナニアとサフィラ夫婦の死も同様です。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」…「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6:3~4)。これは神と出会い、自らの汚れを知らされた若き日のイザヤの経験です。聖なる神さまの御前で、自らの汚れに気づかされ、このままだと滅んでしまうと恐れたイザヤです。
「いや、松本さん、問題ないです。旧約の神は義の神、新約の神は愛の神ですから…」。果たしてそうでしょうか。旧約の神も新約の神も同じイエス・キリストの神です。その神と出会う時に、私たちはどうなるのだろうか。私は、果たして神と出会っているのだろうか。信仰生活を送りながら、そのような思いを抱いたことはないでしょうか。
さて、今日の箇所に登場するアブラハムの人生に、神は、しばしば介入されました。それが音声で語られた言葉か、目視できる幻だったのかは分かりません。ただ1つ言えることは、神とアブラハムとの交わりは常に神の主導権で始まったという事実です。
ふつう祈りは私たちの側から神への働きかけと考えますが、今日の聖書を注意深く読んでいくと、常に神が語りかけ、次にアブラハムが応答しているのです。この順序です。そして、このことは旧約から新約に至るまで、聖書の中で一貫した事実であることを知らされます。ですから大事なことは、神に主導権を執っていただくために、「主よ、お語りください。しもべは聞きます」という思いと姿勢をもって神の御前に心を静めることでしょう。
Ⅱ.訪問客
ある日、遊牧民の格好をした3人の男がアブラハムの天幕にやって来ました。突然の訪問客でしたが、アブラハムは彼らを迎え入れてもてなすのです。
食事が始まり、そこでどんな会話が交わされたのか聖書は沈黙していますが、ただ彼らの内の1人が突然サラの名をあげ、「あなたの妻のサラはどこにいますか」と尋ねました。さらに「来年の今ごろ、…あなたの妻のサラに男の子が生まれている」と語ったのです。それを聞いて、アブラハムはどれほど驚いたことでしょう。そして、天幕の向こうにいて、この話を聞いていたサラが思わず笑ってしまったのです。その場に気まずい空気が流れたことでしょう。そしてそれがどのように和んだのかは分かりませんが、その後、3人はソドムを目指して立ち上がり、アブラハムも彼らを見送るためについて行ったのです。
Ⅲ.神の独り言
17節には驚くべき神の独白が記録されています。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」。この同じ個所を、新改訳聖書では、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と訳しています。
創造者であり、同時に私たちの髪の毛の数も、地に落ちる雀の一羽一羽のことも、すべて把握なさっている神が、何かを考える時に、このように知恵を絞りだすようにして頭を使うということはあり得ないと思います。
ところが、この時、神の頭の中にはアブラハムのことしかなかったかのように、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」、と自問し、悩んでおられるのです。
王の王、主の主なるお方です。ご自分の考えに従ってソドムに罰をくだしても誰も文句など言えません。しかし、ここで神は、ご自分の考えを実行に移す前にアブラハムに報告し、連絡し、相談しようとしているのです。
何で、創り主である神が、わざわざアブラハムに、その胸中を打ち明けたりなさるのか。アブラハムに報告し、相談する義務でもあるかのように感じておられるのはなぜなのか。
ここに、私たちが信じ従う神さまの大切なご性質が、そして、本当に深い意味が明らかにされているのだと思うのです。
神はアブラハムをご存知でした。召しに従い約束の地にやってきたこと。家の者たちの世話をよくしていることも十分ご存知でした。同時に弱さも分かっておられました。彼が特別に優れていて、ご自分と対等に渡り合える人物と「特別視」なさったのではありません。
では理由は何でしょうか。それは「わたしがアブラハムを選んだ」からです。この「選んだ」というヘブル語は「友とする」と訳せる言葉です。
「私はアブラハムを友として選んだ。創造主対被造物、裁き主対罪人という関係ではなく、あくまでも友として選んだ」、そうお考えになって関係を結んだのです。
イエスさまの言葉を思い出します。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:15)
私たちはこのような者として選んでいただいたのです。今日の説教の題に、「天の会議に招かれた人」と付けましたが、正に、神はそういう者としてアブラハムや私たちのことを考えておられるというのです。私たちは「こうしてください」、「ああしてください」と祈ります。同じように、神の側にも願いがあるのです。ご自身が用意した「議事日程(アジェンダ)」にそって話し合いたい、それが祈りの本質であることを教えられます。
そして、この日の「アジェンダ」は「ソドムの審判」でした。それを相談したいと願い、アブラハムに相談したのです。会議の席に引きずり出されたアブラハムは戸惑ったことでしょう。
さっそく彼は祈りを通して話し合いを始めました。それはソドムに、甥のロト家族が住んでいたからだけではありません。仮にロトの家族だけが心配でしたら、そのことだけのために約束を取り付けるような祈りとなったことでしょう。その約束を取り付けたら祈りを終了してもよかったでしょう。
しかしアブラハムは、ソドム全体のことを心にかけていたのです。ソドムは邪悪でしたが、その中には情け深く、善意の人たちも多く居る事実を、彼は知っていたからです。
ただそれ以上に、彼にはどうしても質したい事柄があったのです。それが25節に出て来ます。「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くあり得ないことです。」〈神さま、どうしてあなたが…〉という思いです。
Ⅳ.神さま、どうして
これまでアブラハムは神を信じて生きて来ました。神こそ彼の人生の土台でした。それなのに何でそのお方が、このようなことをしようするのか分からなくなってしまっていたのです。ソドムに親戚や知人もいる彼にとって、「どうして神は正しい者を悪者と一緒に滅ぼしてしまうのですか。そのようなことをなさったら、もうあなたは正義の神ではなくなってしまいます。あなたのことが分からなくなりました。何で、神さま…」そうした悩みでした。
つまり神の資質に関わる問題だったのです。ところが、この祈りを見る時にアブラハムは本当に知りたかったことを質問していません。何故かと言えば彼の心におそれがあったからです。そうしたおそれと戦いながら、もしかしたら御終いかもしれないと震えながらも、彼が一番知りたいことを知ろうと努めていたということです。
そして、32節で「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」と訴えています。これに対して主は、「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と答えてくださいました。
するとどうでしょう。アブラハムと神との対話は終わります。家に帰るのです。なぜここで終わりなのでしょう。何が起こったのでしょう。
詳細は分かりません。しかし、確かなことが1つあると思います。それはアブラハムが納得したということです。
「滅ぼさない。その40人のために。…滅ぼさない。もしそこにわたしが30人を見つけたら。…それをしない。その10人のために…。」と、そのように返ってくる答えごとに、神さまのイメージがアブラハムの中で変えられていったのです。
自分の前におられるお方は、「得体のしれない怪物」ではなく、今まで信じ、すべてを預けて来た恵みの契約の主なる神であったのです。
いや今まで以上に、もっと信頼できるお方だった、という納得です。ですから、もう数字を引き下げ、駆け引きする必要はありません。たとえソドムに何があっても、あるいは何もなかったとしても、このお方は万事を益としてくださる主なる神である。
アブラハムはより偉大な神さまと交わる中で、一回り大きな人間に成長させられていきました。神との出会い、神との交わりがそうさせたのです。
お祈りします。