2018年3月11日
受難節第4主日
松本雅弘牧師
創世記32章22~32節
コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9~10節
Ⅰ.神を拝み倒す?
学生の頃、「神を拝み倒す」という言葉を聞いたことがありました。願い事を神さまに訴え続ける。聞かれるまで一生懸命に祈り屈服させ、神さまに願いをかなえていただく。でもそんなこと可能なのでしょうか。
29節に「お前は神と人と闘って勝ったからだ」とありますが、そもそも「神に勝つ」ということは何を意味しているのでしょう。
こうしたことを念頭に置きながら創世記32章22節からのところをご一緒に読み進めていきたいと思います。
Ⅱ.ヤコブの生育歴に見られる「偽りの物語(天は自ら助くる者を助く)」
ある晩、何者かがヤコブに格闘を仕掛けて来ました。それにしても何故神さまは「何者」を用いてヤコブに格闘を仕掛けたのでしょう。
彼の生育歴をたどるとき、1つ浮かび上がってくるものがあります。それは彼が常に誰かと競い、戦ってきたという事実です。神が良くしてくださることを信じ切れず、神の約束を自らの力で実現するために一生懸命の人生でした。
始まりは誕生の時からです。お腹の中で争う双子の将来に不安を覚えたリベカが主の御心を尋ねると、「兄が弟に仕えるようになる」(創世記25:23)との約束をいただきます。
そして、これが彼女の息子たちに対する見方を決定づけたのだと思います。たぶん、夫イサクにも話したはずです。ところが彼は無頓着です。逆に、イサクは長男エサウを溺愛します。
創世記は、イサクとリベカの夫婦は様々な課題を抱える2人であったことを伝えます。夫婦でよく相談して育てるのではなく、夫婦が競い合う状態です。夫は長男エサウを寵愛し、対抗するように妻リベカは次男ヤコブを可愛がる。
聖書を読み進めていく中で1つ気になることがあります。それは、リベカも息子のヤコブも「兄が弟に仕える」という、神様の約束を、相応しい仕方で受けとめていなかったように思えてならないのです。権利意識だけが肥大化してしまい、信仰にとって、もう1つ決定的に大事な点である神への信頼が欠落しているのです。
「兄が弟に仕える」という神のシナリオが、神のタイミングで実現していく、そのことに信頼し、委ねて待つのではなく、自分の知恵に頼り、策略を練り、自分の力で勝ち取るために、リベカはリベカで動き、ヤコブはその半生を戦いの内に生きていったのです。
リベカとヤコブの2人、その中でも特にヤコブを動かしていた「偽りの物語」は、「天は自ら助くる者を助く」という物語だったということです。
「最終的に信じることが出来るのは神ではない。ましてや人でもない。この私だけなんだ」という「信仰」です。
この「物語」に動かされているヤコブの姿が、創世記の随所に出て来ます。神が最初からヤコブに与えようとしていた恵みや祝福がありました。しかし、彼は神を信頼して待つことが出来なかったのです。そのために、彼は自分の知恵や力によって、自分だけを信じて奪い取っていくことになりました。場合によっては手段をも選ばない。これがヤコブの行動パターンでした。
Ⅲ.不安な生涯
このような出来事がありました。父イサク臨終の場面です。兄エサウが猟から戻って来た時、すでに父親が騙され、祝福が弟に横取りされたことをエサウは知るのです。
怒りは一気に頂点に達しました。このままではヤコブが殺されると案じたリベカは、ヤコブを自らの実家、兄ラバンの許に送り出します。
ラバンの家に行った後も様々な経験をするヤコブですが、そこで彼がとった行動パターンは、それまでと変わりませんでした。
思いつく限りの仕方で、自分にとって好都合、自分にとって得な状況を、自分の知恵と力に頼み、強引に引き寄せる歩みをしていきました。まさに「天は自ら助くる者を助く」に生きる生き方そのものでした。
当然、叔父のラバンと衝突します。ラバンも負けてはいません。2人の間に騙し合い、駆け引きが始まりました。ヤコブもあの手この手を尽くします。神を信じていながら、まじないにまで手を染めた彼の姿がここには出て来ます。
結局、家畜を殖やすことでヤコブに軍配が上がりましたが、その一方で家庭生活は決して楽しいものではありませんでした。仕事から疲れて戻った家庭は2人の妻が常に争い合っています。「幸せな主人」と呼ばれるには程遠い現実がありました。経済的には恵まれていたのですが、安らぎのない、焦りが支配する毎日だったのです。ヤコブはもう限界に来ていました。
神も、そう見ておられましたから、ヤコブを故郷に帰るようにと導かれます。ただ、その時も、あの神の約束、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで、決して見捨てない」(28:15)の御言葉を信じ切れていない彼の姿がありました。
説教の準備をしながら改めて思いました。この時、ヤコブは神さまの守りの内に置かれていた。それゆえ安全だったのです。でも彼はそれに気づいていません。
神が共におられ、ヤコブを守っておられる確かな現実を見損なっている彼の目に映っていたのはラバンです。彼の存在が物凄く大きなストレスでした。神さまが見えない時には、人が気になり始めるものです。そして焦り、心配してしまう。
そのような中にあって改めて〈凄いな〉と思うのです。神様は夢の中でラバンに対し、ヤコブに手を出すなと釘をさしておられるのです。ですから逃亡するヤコブはラバンに追いつかれますが、神様に釘を刺されていたラバンは、ヤコブが故郷に戻ることを了解するのです。
しかし、一難去ってまた一難です。これから向かおうとする故郷にはエサウがいるのです。聖書によればここでもヤコブは「共におられる神」に思いを向けるのではなく自らの知恵に頼ります。
家畜の群れと家族の配置換えを指示し、待ち構えるエサウに、贈物を携えた召し使い達が先に進み、続いて妻や子どもたちが続くという配列で、「私はあなたの僕です」と白旗を上げて、エサウの怒りをなだめる作戦でした。そのようにして召使と家族を次々とヤボクの渡しを渡します。そして、その晩ヤコブが一人っきりになった時に起こった出来事、それが「ペヌエルの格闘」の出来事でした。
Ⅳ.主により頼むことの幸い
ここで突然ヤコブは組み打ちを仕掛けられました。ヤコブは防戦一方です。格闘を仕掛けてきた相手は最後にヤコブの勝利を告げたのです。神は何をヤコブに悟らせるために、「何者」かを用いて仕掛けられたのでしょうか。
実はそれが今日の説教のポイントです。ヤコブは信仰の家庭に育ちました。しかし、彼はまだ「(祖父)アブラハムの神、(父)イサクの神」としてしか神さまを体験していなかったのではないか。「ヤコブ(私)の神」として神を信じ切れていなかったように思うのです。むしろ、彼が信用できたのは、残念ながら神さまではなく、自分でした。「最後頼りになるのは自分だけ」という信仰です。神さまは、この「信仰」、この信念を砕かなければどうにもならないと思われたのです。
ヤコブは腿の関節を外されます。激痛が走り、戦うどころではありません。相手にしがみつきながら上体を維持するだけで精一杯。痛みと恐怖で、もうろうとしたヤコブの耳に、その時、聞こえたのです。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」(35:27)。
ヤコブはとっさに思いました〈去らせるわけにはいかない〉と。そして崩れないように、さらに相手にしがみつくようにして体を預けたのです。その時でした。ヤコブはグッと受けとめられました。喘ぎながら寄りかかった自分を受けとめた胸、それが父なる神さまなのだという恐るべき認識に、ヤコブは捕えられました。そして「祝福してください。祝福してくださるまで離しません!」と叫びます。
この言葉こそ、神が40年以上も待ち続けた言葉でした。もっと早く気付いて欲しかった。胸に飛び込んで来て欲しかった。これが神さまの御思いでした。
自分の足、自分の知恵や力ではなく、神を信頼し、そのお方に依り頼むこと、その意味をこの時ヤコブは体験したのです。
私たちはどうでしょう。仕事も人間関係も良好です。では神との関係はどうでしょう。平安はありますか。いや心の奥を探ると苛立ちがあり、不安や焦りが詰まっているかもしれません。
何故、その状況をコントロールしたいと思って焦ったり、思い通りに動かさなければ気が済まないと考えてしまうのでしょう。それはヤコブと同じように、「最後に頼りになるのは自分だけ」と考えているからです。
でも、私たちの神は惜しみなくお与えくださるお方、万事を益とされ、最高のタイミングを計っておられるお方です。
このお方が共にいて下さる。嵐が吹き荒れる海の上で、私の「舟」は大揺れかもしれない。でも「舟」には主イエスが乗っておられる。御子がおられるのに、舟が沈没するのを、神が許されるはずがない。
ヤコブはそのことに気付いたのです。翌朝、彼は変えられていました。「ヤコブはそれから、先頭に進み出て」(33:3)とあります。
後ろからこそこそ行くヤコブから、丸腰の状態で、自ら先頭に立ち、兄と対面する勇気ある人に変えられていったのです。神との出会いがそうさせたのです。
お祈りします。