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主日共同の礼拝説教

平和と喜びの食事

2018年3月18日
受難節第5主日
松本雅弘牧師
イザヤ書35章3~10節
マタイによる福音書14章13~21節

Ⅰ.「イエスはこれを聞くと…」

今日お読みした聖書の箇所は、こういう言葉で始まっています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」。この時イエスさまは、いったい何を聞かれたのか。何を耳にされたのでしょうか。
前後関係を考えて読むと、イエスさまが聞かれた「これ」とは、明らかにヘロデの御自分に対する殺意と考えられます。
ヘロデが自分を殺そうとしているという噂を聞いて、イエスさまは「舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」と、マタイは伝えています。そのようにして人里離れたところに行かれたイエスさまでしたが、群衆は、イエスさまをひとりにさせてはくれません。
後を追ってついてきた群衆をご覧になった主イエスは、彼らを「深く憐れみ、その中の病人をいやされた」のです。
主イエスのこうした姿を初代教会の兄弟姉妹が覚えて、使徒言行録の中で「聖なる僕、イエス」と告白し祈っています(4:27,30)。イエスさまの姿は、まさにその通り「聖なる僕」のお姿だったのです。
ですから、この「5千人の給食」の場面でも主イエスは「僕」として群衆と共におられました。彼らのために仕え尽くされたのです。そして、やがて主イエスはその彼らに捨てられ、支配者たちの手に渡され殺されます。そのようにして、主は先駆者ヨハネの後を追って行かれました。
しかし、ヨハネは甦ることはありませんでしたが、イエスは復活したとマタイは伝えていきます。こうした大きな文脈の中で「5つのパンと2匹の魚」の奇跡が語られているのです。

Ⅱ.みなが満足する平和と喜びの食事

さて、夕方になっても主イエスは病人の癒しをやめられません。心配した弟子たちが、群衆を解散させ、自分で村へ食べ物を買いに行くように言って欲しいと、主に願います。ところが、主は弟子たちに対して「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と言われ、彼らの手元にあった5つのパンと2匹の魚で人々を養われたのです。食べた人々は全て満足しました。

Ⅲ.ヘロデのパーティーとイエスのパーティー

多くの説教者がこの出来事をヘロデの誕生パーティーと比較して見ています。
最初のパーティーの主人はヘロデです。そこには限られた人だけしか招待されません。客は誰もが選りすぐりの人たちです。食事、もてなしは超高級でした。ただどんなに豪華であっても楽しめた人は少なかったことでしょう。宴の後半に、ヨハネの首が盆に載せられて運ばれてきたのですから。
一方の野外パーティーは極端に質素です。ご馳走は5つのパンと2匹の魚だけです。でも不思議なことに、みんなが心行くまで食べ喜びに満たされました。心からの笑いがあり、子どもたちも走り回り、女性たちも喜んでいたことでしょう。
ヘロデのパーティーには客と給仕役がいました。でも野外パーティーの方は全てが招待された人、と同時に全てが給仕の奉仕に関わった。つまり「隔て」がありませんでした。
ヘロデのパーティーの主人はヘロデ、陰ではヘロディアが操っていたかもしれません。それに対して野外パーティーの主人は主イエスです。何も強制せず、見返りを求めず、与える一方です。ですから食卓は喜びに溢れ、自由に包まれていたのです。

Ⅳ.本当の平和と喜び

ところでヘロデのパーティーには踊りを披露したヘロディアの娘がいました。サロメです。今回初めて知ったのですが聖書には「サロメ」という名前が一度も出てこないのです。確かにマタイには出て来ません。でもマルコかルカにはサロメの名前が出て来るのだろうと思い込んでいました。しかし調べて見ましたら、そこにサロメの名前はないのです。ではどこに出て来るかといえば歴史の資料です。そこに「ヘロディアの娘はサロメであった」と書かれてあるのです。ですから当然のことのように、この娘をサロメと呼んでお話をさせていただきました。
では聖書は何故、もしかしたら彼女の名前はサロメであるということを知っていながら、それでも書こうとしなかったのか、と思います。答えは分かりません。でも1つ、興味深いことがありました。それは、この「サロメ」という名前がヘブライ語の「シャローム」という言葉に由来しているというのです。「シャローム」とは平和、平安、繁栄を意味する言葉です。
ヘロデが主宰した豪華なパーティーは、ある種の繁栄、シャロームの象徴でもあったでしょう。自分に逆らう者を押さえつけ、場合によっては殺しまでして成り立つ「サロメ/シャローム」です。それに対して、主イエスが主宰したパーティーは、繁栄というには程遠いのですが、でも誰もが感じることの出来る「まことのシャローム」がそこにはありました。
それはとても質素なパーティーです。しかし、はっきり言えることは、ヘロデのパーティーにはない豊かさがありました。お金で買えない豊かさです。神さまがくださるシャローム、イエスさまが与えて下さるシャロームとは、誰かが誰かを押さえつけて成り立つものではなく、共に生きる中で成り立つ平和であることを改めて教えられるのです。
先週私たちは、森友学園の用地売却を巡る財務省内での文書書き換えの事件に遭遇しました。テレビを観ていましたら、元財務官僚の女性が省内での「常識」について話していました。省内では出身大学は聞かない。その代りに出身高校を聞くそうです。何故ならほとんどの人が東大出身だからです。
周りの出演者は苦笑していました。彼女の話を聞きながら、大学時代の友人を思い出していました。彼から似たような話を何度も聞きました。クリスチャンになりたての私は聖書の価値観を学び始めた頃で、その世界観がよく分かっていませんでした。また私自身も受験競争で疲れ傷ついていて、友人の価値観を共有していた部分がありました。
ですから話を聞く度に〈自分は何てつまらない人間なんだろう、何て価値のない者なのか〉と感じさせられたのです。
ちょうどその頃、1979年の話です。東ドイツからヘンニヒという名の女性牧師が来日しました。東西冷戦の時代でしたが鎌倉の教会の礼拝に出席し、彼女を囲んで食事会が行われました。
ある教会員が「自分は何人もの宣教師たちから、東ドイツのような共産主義、社会主義の世界において、キリスト者は、生きることができないと聞いていたけれども、しかし、あなたのお話を聞くと違いますね」と尋ねたところ、彼女はこう答えたのです。「今あなたは〈生きる〉という言葉を使われた。〈生きる〉とは何でしょうか。もしも〈生きる〉ということが、立派な学校で学び、立派な履歴を作り、良い地位に就き、財産を得、豊かな生活をすることであり、
権力を握ることであるならば、私の国では、キリスト者は生きることはできません。しかし、ささやかな、生きるに足るだけの糧を得ることができ、教会に集まって神をほめたたえて礼拝をし、人々に仕え、そのようにして〈生きる〉ことは、私たちの国でも許されています。誰も私たちから奪うことができないものです」と。
私はこのヘン二ヒ牧師の返答を知り、再びヘロデのパーティーと主イエスのパーティーとの違いに心が行きました。ヘロデのパーティーは選ばれたエリート夫婦のみが集うことが許されていました。それこそ立派な学びをおさめ、立派な履歴を持ち、良い地位に就き、それなりの財産を得たのでそこに招かれたのでしょう。
ですからヘロデのパーティーは当時のユダヤ社会の勝ち組の集い、そうした空気が充満していましたが、そこには本当のシャロームはなかったのです。
それに対して、イエスのパーティーはパンと魚だけですからささやかです。でも集まった誰もが神の国の喜び、シャロームを経験し、心満たされました。彼らからその恵みを奪うことが出来る人など誰もいません。
ヘンニヒ牧師は「私たちは〈生きる〉ことを許されている」と語りました。世界を統べ治めておられる創り主、全ての価値を定める究極の価値なるお方が、「あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」と宣言し、生きることを許して下さっている。ですから私たちは生きるのです。
主イエスは、権力者ヘロデが無理やりつくりだそうとする喜びではなくて、逆にその権力者ヘロデに追われるようにして、舟に乗って人里離れたところに退かれたのです。そして、そこでも悩みの中にある群衆に取り囲まれ、主イエスご自身は、疲れ果てた肉体と、その魂の全てを注いで愛の業に生きられました。
そのイエスさまが用意してくださったパーティー、主の食卓に、私たちは本当の幸せと、何ものにも代えがたい喜びを見いだすことが許されているのです。
それを味わい知った者の集いこそが教会です。ここにこそ神の国があります。何にも代えがたい恵みがあるのです。
その恵みに与かる姿を通して、私たちは、主を証しする者として遣わされて行きたいと願います。
お祈りします。