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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

復活と派遣

2018年4月1日
イースター礼拝
松本雅弘牧師
ハバクク書3章8~19節
マタイによる福音書28章1~20節

Ⅰ.イエスの死に圧倒されていた弟子たち

世界で最初の受難日、主の十字架の翌日の土曜日、またそれ以降、弟子たちは何を考え、何をしていたのでしょうか。主イエスの十字架の後、弟子たちを包む空気はこれまでと全く違っていたと思います。福音書を読んでも、はっきりとは伝えられていませんが、1つの手掛かりとして、天使が、「あの方は…、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(28:7)と語っていることに気づきます。
一連の厳しい出来事を経験した彼ら弟子たちは、ガリラヤに帰ろうとしていたのです。天使は、そうした彼らの思いを受けるように「あなたがたより先に」と語ったと理解できます。
では何故、ガリラヤなのでしょう。聖書を読む限り、この時の弟子たちは、復活の望みに生かされてガリラヤに行こうとしたのではありません。むしろその逆です。
普通の神経の持ち主でしたら、十字架の直後は何も考えられなかったに違いありません。弟子たちにとって、エルサレムは過ぎ越しの巡礼で訪れた場所、あくまでも滞在地に過ぎません。主イエスの十字架の死に出会って、〈戻るとすれば〉と、咄嗟に浮かんだのはガリラヤの風景だったでしょう。あのガリラヤの海、緑に囲まれた、美しく、自然豊かなあの土地、故郷ガリラヤです。ですから直感的に、〈ガリラヤに戻ろう、そこで一からやり直したい〉と思ったのではないでしょうか。ただ「やり直す」と言っても、すでに主イエスは死んでしまいました。ですからもっと以前、主イエスと出会う前まで遡ります。ペトロ、ヤコブ、ヨハネやアンデレは皆、元は猟師です。〈漁に戻るしかない〉、そう思って〈ガリラヤに帰ろう〉と考えたと思われます。
ある説教者が語っていました。「ここには、はっきりと1つの死の事実がある」と。彼ら弟子たちにとって、主イエスは死んでしまった。それが彼らを包み込む、決定的な出来事だったのです。

Ⅱ.圧倒的な力をふるう

「死んだら御終い」という物語
私を導いてくださった宣教師は「私は死ぬのが怖くありません」と胸を張って語りました。高校生だった私にとってその言葉は衝撃でした。「死んだら御終い」と思っていましたから。
科学万能の今の時代では、「死んだら御終い」と考えることが、よほど人間らしく合理的な考え方だと思われるのではないでしょうか。「健康至上主義」が花盛り、「アンチエイジング」などという考え方がありますが、それはひっくり返せば死の恐怖に怯える人間の姿です。
この時、弟子たちの心を支配していたのも同じ思いでした。そしてまた、今日の聖書箇所の冒頭に登場する2人のマリアもそうでした。彼女たちが、墓に主イエスを訪ねたのは、復活の主にお会いするためではなく、主イエスの遺体の前で思う存分嘆き、悲しみ、泣きたいだけ泣くためでした。
主イエスは、生前、復活の約束の言葉を語っていましたが、十字架の後に、主の約束のその言葉を口にしたのは、弟子たちやマリアたちではなく、皮肉なことに、イエスを十字架にかけた側の人々でした。彼らには、復活を否定する「動かざる証拠」として、イエスの遺体がありましたから、そこに番兵を配置します。遺体が盗まれでもして、「ほら、イエスの予告通り、復活した。だから墓が空っぽなのだ」となったら厄介だと思ったからです。
そのように、彼らは復活の約束を覚えてはいました。ただ正確に言えば、覚えてはいたが信じてはいなかったのです。「お墓が人生の終着駅」という物語に生きていたのです。
弟子たち、そして2人のマリアと同じです。〈主イエスは先に逝ってしまわれた。やがて、自分も死んでいく〉、そうした思いです。
そうした「死の物語」が私たちの心の奥深く、既に根付いてしまっているのです。
この物語に心が支配されている時、私たちは不安を覚えます。いつ死が訪れるのか分かりませんから…。10年先ですか、あるいは2、3年先ですか……。そうしたことを、いつでも考えていなければならないのです。
ある人は、そうした私たちの心を、「死に不意打ちされるのではないかと脅えている状態」と表現していました。明日にでも、死によって不意打ちをくらい、死んでしまうかもしれないという不安です。
これに対して聖書は、主イエス・キリストの復活を宣言します。不意打ちをくらわすのは死だけではなく、復活の主でもあると語るのです。
「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(6節)。そして7節。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」
これこそ聖書と歴史の教会が証言し続けてきたキリストの復活です。信者、未信者を問わず、私たちの心の奥深く埋め込まれている「死の怖さ」「死の絶対」「お墓が人生の終着駅」という物語に対する挑戦であり、それに取って変わるべき新しい喜びの物語でもあるのです。

Ⅲ.死の物語を書き換える

主イエスの復活の物語
復活の主が私たちを不意打ちするために、ガリラヤに先回りしていてくださると、天使は告げています。ガリラヤとは弟子たちにとっての日常です。私たちにとっての南林間のような場所、家庭や学校や、慣れた職場のようなところです。
今日の箇所では、この時すでに復活の主イエスご自身が2人のマリアに出会ってくださっています。ガリラヤに行く以前にです。そしてここでも、「ガリラヤに行ったら私に会える」と語っておられるのです。
彼女たちが主と出会ったのは、主が約束されたガリラヤではなく、今、墓場を出たばかりの所です。ある人の表現を使うならば、「正に死に取り囲まれている所から飛び出して来たばかりのところ」でした。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、」(8節)と書かれています。
彼女たち2人は、ついさっき、墓の中で経験した不思議な出来事に怖れを抱きつつ、一方、主イエスが生きておられるという、天使の言葉に、すでに喜びを感じながら走っていた、その時です。「すると、イエスが行く手に立っていて」(9節)と記されています。
原文を読むと、「すると」と訳されている言葉はもっと強い「見よ」、英語では「behold」という言葉が使われています。
「走って行った、すると見よ」、「見よ、イエスが行く手に立っていた」、「イエスが迎えに来られていた」という意味です。
この時、彼女たちの頭の中にあったのは、自分の経験した出来事を誰が信じてくれるだろうかという心配でした。そうした思いの中で走り始めました。すると突然、主イエスが現れ、彼女たちを迎えてくれたのです。仲間の弟子たちではありません。先ほどの天使でもない。復活の主イエスご自身でした。
そのお方が、誰よりも先に彼女たちを待ち構え、「おはよう」と言って出迎えてくださったのです。
「おはよう」の意味は「喜びなさい」です。こうして復活の主と出会った彼女たちは、主との出会いの喜び、そして、この喜びがガリラヤにおいては、みんなのものになる、という興奮に満たされたのです。
そして、天使からではなく直接、主イエスから預かった、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに遭うことになる」という大切なメッセージを、仲間の弟子たちに伝えるために走ったのです。
この時、主イエスは弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでいるのです。私は、今回初めてそのことに気づかされ、〈本当にありがたい〉ことだと思わされました。

Ⅳ.「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」

このようにして、ガリラヤで弟子たち、いや兄弟姉妹と会ってくださった復活の主イエス・キリストが、彼ら「キリストの教会」に与えて下さった御言葉が、マタイの福音書の最後、28章18節以下に出てくるのです。
主イエスは3つの命令を語られました。そして、一方的に命令をなさるだけでなく、天地の一切の権能を授かっている主ご自身が、世の終わりまでいつも共にいてくださると約束されました。
この福音書を書いたマタイは、天使がイエス・キリストの誕生を告げた時、「『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(1:23)と書き始め、そして、最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20)という主の約束で締めくくっています。
「マタイ福音書は『神が共におられる』『キリストが共におられる』という2つの約束にサンドイッチされた福音書なのだ」と、ある牧師は言いました。正にその通りだと思います。
この約束は神を信じない人々にとっては、愚かな言葉でしょう。でも、愚かに思える言葉を疑いつつも信じ、主イエスの弟子になる決心をして歩み始める時、私たちの人生で、私たちの生きる世界で、何かが動き始めます。
「死んだら御終い」の物語は、復活という希望の物語に書き換えられ、「死は新しい命への旅立ち」となるのです。それ故に、天での再会の望みへと私たちは導かれるのです。
私たちは復活を信じ、「神は我々と共におられる」という約束と共に歩んで行きましょう。
お祈りします。