2018年4月8日
松本雅弘牧師
マルコによる福音書7章31~35節
Ⅰ.「イエスは、この人だけを群衆の中から連れ出して・・」
今日の聖書個所は、聴覚と言語に障がいをもつ人をイエスさまが癒され、そしてそれを知った人々の驚きの様子が伝えられています。
ところで、この人の身体的な障がいはコミュニケーションに関わるもので、大きな重荷となっていたことだと思います。障がいのゆえに人々との交わりから断絶を感じ、疎外感を覚えて過ごしていたことでしょう。
これは人間にとって最も痛ましい状況の一つであると思います。この時代、因果応報の考え方が支配していましたから、人々がこの人を見た時、何か悪いことをしたからこのようなひどい目にあっているのだと考えたことでしょうし、彼も自分をそう見ていたのではないかと思います。
ところがどうでしょう。友だちっていいですね。彼らの執り成しによって、彼はイエスさまの前に連れて行かれ、そしてイエスさまによって自分自身を取り戻すのです。
ところで、今日この聖書箇所を選んだ理由は、33節にある「イエスは、この人だけを群衆の中から連れ出して・・」いう言葉、そのイエスさまの行動に注目したかったからです。
この時イエスさまは彼だけを群衆の中から連れ出して癒されます。これこそが、神さまの私たちに対する関わり方だと思います。つまり個人的、パーソナルなのです。
聖書を読む上で、このことは本当に大切な真理です。今朝、私たちがこうして礼拝に集うことが出来たのは、神さまに招かれたからだと聖書は理解します。プログラムの最初に「招きの詞(ことば)」と書いて「招詞」と呼ばれるものがあります。礼拝は神からの招きの詞(ことば)で始まるのです。
私たちを日常生活から呼び出し、私たちに何かなさろうとしている。そのような時と場がこの礼拝なのだと受けとめていただければ幸いです。そのように私たちを招くお方は、私たちを「一個の人格/心を持つ存在」として接してくださいます。
旧約聖書には、神さまというお方は、非常に細くかすかな御声で語られるお方と表わされています。大勢に話す場合、私たちは大きな声で語ります。聖書の神さまが細くかすかな声で語りかけておられることは、そのお方は、私たちを十把一絡げに扱うのではなく、私たち一人ひとりとしっかり向き合って、大切な一人として相手にしてくださっているということなのです。
この時、イエスさまはこの人を大勢の中から独りになさり、この人を大切にして接したかったのです。私たちに対しても同様です。
今日から歓迎礼拝が始まりますが、この聖書の箇所に出て来るこの人のように、日常から少しだけ離れて神さまを賛美し、また聖書から自分自身を振り返ることが出来れば素晴らしいと思います。
Ⅱ.根っこに与えられた2つの役割
今日の説教のタイトルに「根っこが育つということ」と付けました。木、樹木を考えてみたいと思います。木には外側の部分を支える根っこが地中深く張り巡らされています。根っこの役割は主に2つあり、外側を支えるという役割と、養分や水分を木全体に供給する役割です。ですから根っこが深い分だけ幹は高く伸び、根っこが広い分だけ幹は枝を広げることができるのです。逆に浅ければ木も大きくなりません。大きさを決めるのは根っこだからです。
Ⅲ.目に見える部分と見えない部分の関係
私たち人間も木に似ているところがあると思います。目に見える部分、外側は、目に見えない根っこのような隠れた部分で支えられている点です。
木には幹や枝や葉や花や実がありますが、そうした目に見える部分は私たち人間に当てはめるならば、その人が持っている知識や技術とか、その人がしてきたこと、獲得し身に付けているもの。実績や資格のようなものかもしれません。
木の場合、根っこの成長と共に外側の木も成長し、もし、根っこの成長がなければ外側の木も成長しないはずです。でも私たち人間の場合、しばしばそれがアンバランスになることがあるのではないでしょうか。根っこが成長していないのに外側の部分が大きくなってしまうということです。
地中に隠れている根っこについては、何もない時には意識されません。でも人生の節目、例えば進路選択、結婚、子どもが誕生した後の子育てや教育の問題、大きな買い物をする時など、根っこ、すなわちその人の物の考え方や価値観、すなわち目に見えないものが問われます。
普段は目に見えないものと言えば人間関係などの諸関係を思い浮かべます。親子の関係、夫婦の関係、友人関係、職場の仲間との関係、場合によっては自分自身との関係があります。
セルフイメージという言葉がありますが、自分をそのままの姿でどれだけ受け入れているか、と言ったような問題があります。また、その人の信仰、神さまとの関係も目に見えません。
私たちの外側の部分が健やかに成長するためには、このような見えないところで支える諸関係が豊かである時、外側の働きは広がり、実を結んでいくのです。
先ほど、根っこの2つ目の役割として、栄養や水分を補給するということについてお話しましたが、この関係という根っこは、そうした働きを担います。私たちは人との関係、自分との関係、神との関係の中で何かを受けとめ、感じ取り、心に刻んだものが栄養となって行くのです。それにより人生は豊かなものとされます。
逆に、外側の実を結ぶことばかりを優先するあまり、例えば夫婦の関係や様々な関係がおろそかにされ、根っこの成長が追い付かなければ、支え切れずに倒れてしまうことだって起こり得るでしょう。
Ⅳ.根っこが育つということ
今お話ししてきたことを考えると、特に幼児期は根っこが育つ大切な時期だと思います。
子どもたちの様子は、幹も細く枝もまばら、葉っぱも若葉で、花や実はまだ見られません。でも、心はたくさんのことを感じているのです。小さな発見があり、楽しいことで心を弾ませ、小さな心配で心が揺れる。そのように心を動かし、そして、動くたびに根っこが育っていくのです。
それは目に見えない部分です。でもそれこそが、その人の生涯を支える力になる部分となるのです。
私たちはとかく目に見える部分の育ちを気にしてしまいます。何かが出来るようになること、もっとうまくできるようになること、そういうスキルの育ちを期待しがちです。しかしそれは、大事な根っこの育ちを軽んじ、枝葉の育ちを求めていくことです。無理に枝を曲げたり、場合によっては剪定をしてでも、思うような目に見える育ちを求めていったりしてしまうことがあるかもしれません。それは、若木を傷め、子どもをダメにするかもしれないのです。
心が豊かに動くためには、むしろ子どもの心に安心が必要です。この安心は、特にお子さんがちいさければちいさいほど、母親との関係、両親との関係という目に見えない根っこの育ちが本当に大切なのではないかと思います。
皆さん『ぞうさん』の歌、知ってますか?
ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのね/そうよ、母さんも、長いのよ。
ぞうさん、ぞうさん、誰が好きなの/あのね、母さんが、好きなのよ。
ある時、象の子どもが学校に行くと、そこにキリンの子がいました。キリンの子は小象に「君の鼻は長くて変だ!」と言ったのかもしれません。でも小象は平気でした。「そうだよ。だってお母さんの鼻も長いから」
小象はお母さんが見えなくなる時、鼻の長さが気になってしまいます。キリンの子に比べ首が短いことで不安になります。人と比べて成績が良くないこと。他の人と同じになろうと一生懸命になります。
そのように造られているはずの長い鼻を変えようと努力します。
でも小象がお母さんにしっかりと結びついていたら〈大好きなお母さんがいるから大丈夫だよ〉と様々な声を撥ねのけることができるでしょう。
母親から愛され、そのままの姿を受け止められていることを実感していたらお母さんと同じであること、同じように生きることは小象にとって誇りとなり自信となります。
お母さんと小象の姿は、神さまと私たちの姿を表していると思います。この安心を考える時に、聖書はさらに確かな根っことなる神との関係を説き明かします。
聖書で人間を表わす言葉は上を見上げ、神を仰ぐ者という意味があります。つまり、人とは神さまとの関係があって初めて安心して生きることが出来る者だと教えています。
今日から春の歓迎礼拝が始まりました。
目に見えない根っこの部分、どのような価値観を土台とするのか、色々な意味で私たちの生活を支える根っこの部分を育てることを、聖書の言葉を通して学び、神さまの恵みと平安に触れる機会を共に持つことが出来れば素晴らしいと思います。
この歓迎礼拝が皆様にとって素敵な時となりますように。お祈りします。