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主日共同の礼拝説教 歓迎礼拝

あの時以来

2018年4月15日
春の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マタイによる福音書8章1~4節

Ⅰ.「あの時以来」

イエスさまというお方は、私たちが人としての自分を取り戻すために語りかけ、出会ってくださるお方ですね。今日もそうしたイエスさまとの出会いを経験した人が登場します。

Ⅱ.映画『あん』(河瀬直美監督)を観て

山上の説教を終えられた主イエスが山を下りると、重い皮膚病を患った人が近寄ってきました。
重い皮膚病とは、今で言うところのハンセン病とされてきました。ハンセン病の感染力は非常に弱いと言われます。なおかつ遺伝病ではありません。
しかし日本でも患者は隔離され、子どもをもうけることを禁じられてきた過去があり、そのことに対する謝罪について、今も問題となっている現状があります。そうした意味で日本でも現在進行形の課題であることを思います。

Ⅲ.和解の手を差し伸べるイエス・キリスト

この人の苦しみ、この人を苦しめていたものは、肉体的苦痛であると共に、「汚れた者」というレッテルを貼られるという宗教的な断罪であり、そして、社会的な疎外でもありました。そのような意味で、この人は三重の苦しみを背負わされていた人だったと思います。
同じ出来事を記録したルカ福音書を見ると、この時の彼の様子を「イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた」(ルカ5:12)と言う言い方で伝えていました。「居てはいけない人がそこに居た」というニュアンスでその状況を記録しています。「そこに居た」ということは、本来、その人にあてがわれた場所から移動してやってきたので、そこに居たということでしょう。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です。』と呼ばわらなければならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13:45-46)と記されています。
旧約聖書レビ記にあるように、当時、重い皮膚病にかかった人は、「汚れた者、汚れた者」と患部を見せながら、人々と接触をしないように移動しなければならないことになっていましたから、そうした犠牲を払ってやって来たのでしょう。そして、彼はひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願っているのです。
ただ1つ、気にかかることがあります。それは、この時、彼は、単純に、「主よ、清めてください!」とは言っていないのです。彼の中に、どうしても気にかかる1つの心配があったのです。それは、「果たしてイエスさまが私を癒そうと思うかどうか/そうした気持ちになるかどうか」という事でした。ですから、単純に「主よ、清めてください!」とは言っていないのです。いや、言えなかったのです。
その代りに、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのではないかと思います。
世間は厳しい。それでどれだけ傷ついてきたことでしょう。そしてやっとつかんだ幸せのときを、またその世間が奪っていく。そうしたことの繰り返しでした。ですから、何か起これば過剰に反応し、もう傷つけられたくありませんから防衛的になったり……。そのようにして過ごして来た彼でした。
今、このイエスさまだけは違うと期待しつつ、でも、もしかしたら、と思ってしまう誘惑との戦いだったのではないでしょうか。
この人は、重い皮膚病ですから普通の人と肌の色は違っていたことでしょう。現代医学では治せる病で、感染力も弱いのですが、ここは、二千年前の時代です。周りの人が嫌悪感を覚える存在でした。いろいろ考え始めたら、不安になり、自信が無くなって来ます。ですから、「イエスさまは果たして自分を癒そうと思ってくださるかどうか…。」 これが唯一、そして決定的に彼の心を支配していた不安だったと思います。
ところが、ひざまずいている彼に、イエスさまは手を伸ばして触れられた、のです。口をお開きになる前に手を伸ばして、全身重い皮膚病に犯されているこの人に触わってしまわれたのです。
この当時、誰もが、近づくことさえ恐れる病人です。イエスの周囲にいた人々は、その人が重い皮膚病を患っていると知った瞬間に、後ずさりしたのではないかと思います。しかしイエスさまだけは、逆に前に進み出ながら、手を差し伸べて、その人に触れたのです。
ここで1つ、覚えておきたいことがあります。福音書を見ていきますと、イエスさまは多くの病人を癒されました。ただ、イエスさまが誰かを癒される時、常にその人に触れて癒されるわけではない、ということです。
この出来事の後、百人隊長の僕が癒される出来事が紹介されていますが、そこでは約束の言葉を与えただけです。その僕の姿を見てもいないのです。主イエスさまは、それだけで人を癒すことができた、ということを福音書は伝えているのです。
ところが、この時は、わざわざ重い皮膚病を患った彼の体に触れておられます。それには理由があったと思います。それは、この人の体に触れることが、この人にとってどんなに大事なことか、イエスさまは良く知っておられたからだと思うのです。
思うに、彼の負っていた病、また深い傷は、単に体の病気によるものだけではありませんでした。誰からも相手にされず無視される。バカにされる。
しかも、レビ記にありましたように、「わたしは汚れた者です」と、自分から言わなければならない。いや、叫ばねばならなかったのです。そのような者として自覚しなければならない。そうしたアイデンティティーを刷り込まれていた人です。そこに、彼の心の傷、痛みがあったのだと思います。
私たちの主イエスさまは、そうした彼の、深く痛む傷に優しく温かな手を置いて癒そうとなさいました。彼にとっては何年も、いや何十年も経験できなかった感触です。
イエスさまの手が触れた時、彼にとっては本当に久しぶりの手の感触でした。病に犯された彼の肌はどのように反応したでしょうか?! きっと鳥肌が立ったことでしょう。
そして、イエスさまは「よろしい。清くなれ」と言われました。「よろしい」という言葉は「私はそれを欲する」という意味です。「主よ、御心ならば…」という彼の願いに対する主イエスさまの答えが、「私はそれを欲する。清くなれ」だったのです。
それだけではありません。「手を差し伸べてその人に触れる」という言葉は、ユダヤの習慣では仲直りの行為でした。「和解の手を差し伸べる」という意味のある言葉です。
何年もの間、彼は、聖なる所から一番遠い場所に閉じ込められていました。人間として生きる権利を奪われるような生活でした。
生命と身体はあるのです。いや、心もありました。もしかしたら、彼の心は普通の人とは比べものにならない程、敏感によく働いたかもしれません。そうした心を持っている人間であったにもかかわらず、彼には身の置き場がなかったのです。
そうした彼に、感染するかもしれないのに触ってくれた。友が仲直りの手を差し伸べるように、彼を虐げていた人間社会を代表するかのように、「赦してくれ」とイエスさまの方から和解の手を差し伸べてくださったのです。
そのようにして、彼の手を取って神さまの恵みの中心へと彼を招き入れてくださったわけなのです。その結果、重い皮膚病はたちまち癒されます。

Ⅳ.山を下りられるイエスさま

主イエスさまは、誰もが触れない彼に触れられた。和解の手を差し伸べられました。そのようにして神との間の仲保者になり、和解をなしとげてくださいました。この憐れみの極地が十字架の死でした。
キリストは体を張って、私たちの生きる「居場所」を備えてくださったのです。ご自分の命と引き換えに、私たちに命を与えてくださったのです。
最後に8章1節に注目しましょう。「イエスが山を下りられると」と出て来ます。
聖書の世界では、山とは神さまに近い場所を意味すると言われます。逆に、海は世俗の世界を象徴します。
ある先生が、「この『イエスが山を下りられる』というひと言の中に、すでに大きな福音があると思います。」と語っていましたが、まさにそのとおりだと思います。
教会の礼拝に通い始めた頃、日曜日に礼拝に来ることで、心を洗濯していただくような爽快感がありました。ところが家に帰り、月曜日、火曜日、そして週も終わりに近づくにつれ、だんだんその「恵み」が色あせて来るのを感じたことです。
確かに礼拝の時は「山の上」のような経験かもしれません。でも、私たちは、必ずそこから「日常」へと戻って行くのです。
ただ、今日、覚えておきたいのは、そんな私たちの日常に、主イエスさまが共に下っていってくださるという約束です。ご自分1人が山に留まるのではなく、山から日常に戻る私たちと一緒に、主イエスさまは、この世の真っただ中へと進んで行かれるのです。大変さや辛さ、誘惑の多い、その日常のただ中に、です。
このイエスさまは、そのところで私たちと出会い、出会った私たちは、その出会いを通して本当の自分を取り戻すことができる。そして、主イエスのもとで本当の平安をいただくことができるのです。
この礼拝が皆さんにとって「あの時以来」の出来事になりますようにと願います。
お祈りします。