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主日共同の礼拝説教

主イエスだけを見つめて

2018年5月6日
松本雅弘牧師
イザヤ書65章13~19節
マタイによる福音書14章22~36節

Ⅰ.主イエスはだれなのか、を問い直す経験

マタイ福音書には「山上の説教」が出て来ます。それに代表されるように、マタイ福音書は、イエスの弟子になる道を説いている福音書だと言われています。
その観点からすれば、今日の出来事も、弟子たちが、主イエスに従うということが一体どのようなことなのかを学んだエピソードとして紹介されていると言ってよいでしょう。
ところで、主イエスのお姿はいつも見えているわけではありません。主が共におられる恵みの中にあると言いながらも、残念ながら、そうした神の国の現実を常に覚えているわけではないのです。突然、逆風が吹くと、主イエスの姿が見えなくなります。
それがここで弟子たちが経験した出来事でした。この時、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、向こう岸へ行くようにと命じられました。あの奇跡の食事の後です。そこは物凄い興奮に包まれて、主がメシアとして担がれていくような場面です。「この方こそ、メシア・まことの王です」と訴えれば多くの人が耳を傾け従ったことでしょう。弟子たちも期待したと思います。でも、それは主の御心ではありませんでした。まだその時は来ていなかったのです。
それどころか、主イエスは、弟子たちを群衆と御自身から引き離し、強いて舟に乗せ、向こう岸へと出発するように命じたのです。その結果、彼らは嵐に遭うことになりました。

Ⅱ.「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

嵐は吹き荒れました。乗っているのは、びくともしない大きな船ではなく、葉っぱのようないつ沈むかわからないような小舟です。
彼らの様子を見る時、信仰をもっていても、不安に襲われ脅えることがあるのだと改めて思い知らされます。信仰をもたない人と同じように、いや信仰をもったが故に、もたなかった時以上に悩むことすらあるのではないかと思います。
この時、嵐の中での恐怖に加え、彼らの心をさらに混乱させたことがありました。〈もとをただせば、イエスさまが、自分たちだけを舟に乗せて、強いて送り出されたからではないか〉という思い、主イエスに対する疑いの思いです。
ちょうどそうした時でした。主イエスが湖の上を歩きながら近づいて来られたのです。
漕ぎあぐんでたどり着いたスポットは、陸から「何スタディオンか離れた」ところでした。ヨハネ福音書には「25ないし30スタディオン」(6:19)とありますから、ちょうど湖の真ん中あたりでしょう。
弟子たちが夜通し悩み続けていた時に、真の助け主であるお方が、確実に、それも一歩一歩近づいて来ていたのです。ところが、それに気付いた弟子たちは、恐怖のあまり叫び声まで挙げてしまう。そして、「幽霊だ」と言って怯えたのです。滑稽と言えば滑稽ですが、彼らを笑うことも責めることも出来ません。
だれが水面を歩くでしょうか。水の上を歩ける人間など一人もいないわけですから…。しかし救い主イエスは、そうした弟子たちを救うために一歩一歩近づいて来られるのです。そして「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とおっしゃいました。
ここで重大なことを主イエスは口にされました。「わたしだ」という言葉です。現在も、多くの専門家たちが研究を重ねる程に深い意味のある言葉です。特別な表現です。
「私はいる」(I am)とも訳せる言葉。つまり、主イエスの存在そのものが助けだというメッセージです。小さな子どもにとっての「お父さん」「お母さん」のようなものです。お父さん、お母さんが居てくれれば安心です。姿が見えなくなると、急に不安になるのが子どもでしょう。
でも、不安になった時、「ここにいますよ」とお母さんに呼びかけられる。その声が誰の声であるか、子どもはよく知っています。「ああ、お母さんだ。お母さんがいる」、もうそのこと自体が子どもにとっての救いです。そういう安心感です。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。この呼びかけは、そのような言葉として聞こえました。親しみのある主の御声だったからです。
ペトロにとって、他の弟子たちにとって、我が子を安心させるお母さんの声のように、そのような救いの言葉として彼らは聞いたのです。

Ⅲ.信仰の冒険

ペトロはこの言葉に飛びつきました。その声を聞き、そのお方が主であることを知り安心します。そして、「イエスさま、あなたでしたか。主よ、あなたでしたら、わたしに命令し、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ったというのです。
これこそ信仰の冒険です。「信仰の冒険」とはイエスの御言葉を信じること。御言葉の約束を信じて、一歩、前に歩みだすことです。すると冒険した者にしか味わえない恵みや祝福にあずかることになるのです。
考えてみてください。ペトロは、この時までの主イエスとの生活を通して、主が共にいてくださる恵みがどういうものなのかを味わい知っていたはずです。マタイ福音書で言えば、今日の14章に至るまでのさまざまな出来事を通して経験してきたわけですから。
思うに、ペトロは主イエスを試そうとしたのではないでしょうか。嵐の中です。波にのまれそうな、そうした状況であったにもかかわらず、イエス・キリストを信じて歩み出そうとするのです。そのペトロに向かって主も「来なさい」と言われる。ペトロはその言葉を信じて自らの足を水の上に置くのです。
主イエスさまをまっすぐに見つめながら歩き始める。すると本当に不思議にも水の上を歩くことが出来ました。ところが、そこに強い風が吹いてきたのです。激しい風にあおられた大きな波がこちらに向かってきます。ペトロはそれを見て怖くなりました。その瞬間、主イエスから目をそらしてしまいます。すると途端に沈みかけたというのです。
これは示唆的な言葉として心に響きます。まっすぐに主イエスを見つめている時は怖くなかった。水の上さえも歩けた。でも波の方に気を取られたとたんに沈みかけたのです。「主イエスといえども、この嵐には勝てない」と、瞬間的に思ってしまったからなのでしょうか。
ある牧師は、「風を見て恐ろしくなる。この〈風を見る〉とはどういうことか?」と問題提起をしていました。
考えてみれば、私たちは、風を見ることなど出来ません。見えるのは、見えない風が呼び起こした波でしょう。その波に脅えてしまったのです。波が風を見せるからです。
主イエスに派遣されて歩み出す中、イエスよりも強いもの、イエスよりも大切なもの、イエスよりも素晴らしいものがあるかのように見せる「風」が吹き、私たちの周りにたくさん見えてくることがあります。「主イエスは救い主です」と告白して歩み始めると、「それがどうした?」と言わんばかりの「波」が目に入ります。
「信仰をもつことは幸いだ」と思った矢先に、「お前がやっていることは、時間とお金の無駄なのではないか」と囁く声を聞きます。
受洗した直後のイエス様を襲った「神の子なら、・・・・・・したらどうだ」という、悪魔の誘惑のようなものでしょう。
時に、そうした力を手に入れられたらどんなにか幸せかと考えます。まして疲れ、行き詰りを経験し、寂しさや不安を感じているような時はなおのことです。
目に入る「波」、それを起こす「風」は、本当に大切なお方から私たちの目を離そうと誘うのです。
でもどうでしょう。本当に幸いなことに、この時、ペトロたちが出会ったこの出来事はそれで「おしまい」ではありませんでした。
主は、「恐れることはない」、「なぜ疑ったのか」と声をかけ、主がおられることを私たちに気づかせてくださるのです。

Ⅳ.主イエスだけを見つめて

先週、壮年会の修養会がありました。「70周年の記念誌」委員会のメンバーが分担して発表し、それを受けてのやり取りを行いました。
御心を求めつつの歩みであっても、教会の歩みには、ある種の限界や弱さ、失敗もあります。キリスト教会の歴史を振り返る時、ある人は「人間の混乱、神の摂理」と語りましたが、私はよくこの言葉を思い出します。教会の歴史の背後には、必ず摂理の神が共におられ、復活の主がいつも共にいてくださるのです。素晴らしい慰めの言葉です。
そして、これは教会の肢としての私たち一人ひとりの人生にも当てはまります。少しだけ長く人生を歩んでくると、上手く行ったことよりも、むしろ失敗や後悔の方が多いかもしれません。まさに「混乱」です。でも幸いなことに、キリストに在る者はそれで終わらないのです。
混乱している最中に、主は一歩一歩近づいてこられる。そして、主から目をそらし、この世の荒波にのみ込まれそうになって「もう駄目だ! 主よ、助けてください」と叫ぶと、主は力強い御手を伸ばし、私の手をぐっと掴んで引き寄せてくださいます。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われ、嵐を静めて、「本当に、あなたは神の子です」との告白へと私たちを導かれるのです。
私たちはこのお方から決して目を離してはなりません。しっかり前を向いて歩いていきたいと願います。
お祈りします。