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主日共同の礼拝説教 召天者記念礼拝

上にあるものに心を留めよ

2018年5月13日
召天者記念礼拝
松本雅弘牧師
詩編90編1~12節
コロサイの信徒への手紙3章1~3節

Ⅰ.人間のもろさ

創世記は人間について大切な2つのことを教えています。1つは、人間はチリで造られたということ。もう1つは、人間が神のかたちに造られたということです。
人間がチリで造られたことには深い意味があります。風の強い日など、それによって土が宙に舞うことがあります。そしてまたしばらくすると地面に戻ります。つまり、チリは外の力(風の力や引力等)に簡単に影響を受けてしまう存在だということです。人間がチリで造られたとは、このように、人間の持つ弱さや脆さの側面を教えています。
このことで、まず私たちが思い知らされるのは死の現実でしょう。死を考える時、死はさまざまな面をもっていることに気づきます。
死とは何か? 一般的な説明は、生物学的な意味での命の終わり、それが死でしょう。命あるものは必ず、この死を経験するということです。
以前、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という言葉が流行りました。確かに死も皆が経験することです。極めて一般的で普通なことです。でも怖いのです。何故でしょう? ある人は「死は怖くないが、死ぬのが怖い」と言いました。ですから、ぽっくり死にたいと思います。また、ある人は死後どうなるか全く分からないから怖いと言います。
死の苦痛が耐えがたいので、〈いっそ、ひと思いに死んでしまいたい〉という思いを抱きつつ、だからと言って、ひと思いに死んだとしても、その先に何が待っているか分からない。だから不安を感じるのです。これも死が怖い大きな理由でしょう。
先程の「赤信号・・」ではありませんが、死は、決して皆で渡ることができません。死は自分自身の死であって他人に代わってもらうことなどできないからです。
牧師をしていますので臨終に立ち会うことが何度もあります。けれど、他人の死を幾度経験しても、私自身の死について、何らかの助けになっているか怪しい気がします。当然のことですが、他人の死は決して私個人の死とはならないのです。ですから死は孤独です。いや、人間は本来孤独なもので、その孤独さを暴露するのが死の事実である。それ故に怖いのかもしれません。
子どもが小さかったりすればなおのこと、〈死んだら家族はどんなに苦労するだろうか〉と思うと、死はますます忌まわしく思えて来るものでしょう。
そして死とは、好むと好まざるとにかかわらず、人生を振り返り、自分の人生の総決算を迫られる出来事でもあるのです。私たちは多くの場合、上手くいった経験よりも後悔の方が多いでしょうから、どうしても「まだ死ねない」と思ってしまいます。
私たちにとって、全ての営みの中断を突きつける死は、本当に恐ろしく残酷な現実にもなるわけです。

Ⅱ.神のかたちに造られた人間

チリで造られた人間は、他の生き物同様に死を経験します。ただ、他の生き物には感じ得ない恐怖を、死に対して抱くのが人間です。これこそが、神のかたちに造られた現実と深く関係しているのです。
創世記には「罪を犯したら死ぬ」と予告されていましたが、現実は、アダムとエバは生き続け、子どもをも授かります。
このことから、神が罪との関係で人間に予告した「死」とは、単なる生物学的な終わり以上のことだと分かるのです。そうした視点で創世記を読んでいくと、「死」は関係の断絶、特に命の源である神との断絶であることが分かります。
創世記の中で、関係の断絶を経験した人間は、自分との断絶をも経験し、自己受容が難しくなりました。そのための対策が「いちじくの葉」です。見せたくない箇所、恥ずかしい所、知られたくない場所に葉っぱをペタッと貼って人前に姿を現し、相手に受け入れてもらおうとするのです。ただそれは本当の自分の姿ではありません。飾った姿、背伸びした姿ですから窮屈で疲れます。けれどもそうしないと不安でたまらないのです。そして何かの拍子に「いちじくの葉」がハラリと落ちることもある。
本来、神との交わりによってこそ本当の充足を経験するはずの人間が、神との断絶、命の源である神との断絶によって、その心の奥深くに、他の何によっても満たすことのできない空洞が生まれるのです。これが聖書の教える死です。
では、この死がもたらす悪循環を断ち切る道はあるのでしょうか。それは主の十字架です。
主イエスは、チリで造られた私たちの死、神のかたちに造られた私たちの死という、2つの死に対する解決の道を、十字架で完成してくださったのです。

Ⅲ.上にあるものに心を留めよ

キリストは救いの業を成し遂げて復活し、今は天に上げられ神の右に座しておられます。
パウロは、コロサイの信徒の手紙で「上にあるものを求めなさい」(3:1)と勧めています。この「上」とは「キリストのおられるところ」です。神の御許です。先に天に召された愛する家族が、キリストにあって安息をいただいている、そのところです。そのことを思うことが許され、なおかつそれを求めるようにと勧められています。
2節で、パウロは再び「上にあるものに心を留め」と繰り返しています。そして、その具体的な生き方は「地上のものに心を引かれないようにしなさい」ということです。
パウロの言う「地上のもの」とは、さまざまな思い煩いでしょう。「苦しまないで死にたい」、「死ぬ時は独りぼっちで寂しい」、「はたして自分の人生は満足な人生だったのだろうか」…。そうした1つひとつの思い煩いです。私たちにとって当然な思い煩いです。
そして、それらはどれも地上に属する思い煩いです。こうした思い煩いは、時間をかけて、どれほど真剣に思い煩っても、チリで造られた私たち人間にはどうにもできない類の思い煩いです。
ですから、そういう思い煩いの淵に沈んで、自分を見失ってしまわないようにと、聖書は「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているの」(コロサイ3:3)だから、自分の生死を神さまに委ねていきなさいと勧めるのです。
主がその断絶に十字架をもって橋渡しをしてくだるのだから、主を信じ、さらに自分自身とも和解し、周囲とも和らぎなさいと言うのです。こうしたことこそが、「上にあるもの」を求め「地上のもの」に心引かれない生き方なのです。

Ⅳ.神さまの親切の反映

Sさんというクリスチャンがいました。彼は進行性筋ジストロフィーと闘った人で、23歳で召された方です。彼が14歳の時、次のような詩をつくりました。
「人間の心なんて 積み木みたいなものなんだね ちょっとさわればすぐ崩れてしまう」
Sさんは自分の心が、そして周囲の健康な人をも含めて、人の心が積み木のように壊れやすく脆いものだと言うのです。
その詩はさらに続きます。「だから神さまの根を心の中にたくさん張らしておかなくてはならない」と。
14歳と言ったら中学2年生です。ある人が「聴」という漢字は「耳偏に十四、そして心」と書くことから、「聴く」とは、その字のごとく「十四歳の心をもって耳を傾けることだ」と書いておりました。
Sさんは、まさに14歳の感受性の鋭い心をもって、自分と周囲の人々の優しく壊れやすい心を一生懸命、観察したのでしょう。だから、「僕の心」とだけ書かないで、彼はこの詩を「人間の心…」と書き始めたのだと思います。
この少年は、私たちの心がいかに脆く、積み木みたいに壊れやすいかを実感していました。だから彼は「地上のもの」の限界、チリで造られた自らの限界を受けとめ、キリストと共に、神の内に隠されている自らの本当の命を見いだすために、永遠の命という宝を盛ってくださる主イエスの神に心を向けるように、「上にあるものを求め」ました。
<僕たちの心は積み木みたいにもろいものであるからこそ、神さまへの信仰が大事なんだ。だから、神さまの根を、その積み木のような心の中にたくさん張らしておくことが大切なんだ〉と詠んだのです。
キリストは永遠の命を与えるために十字架にかかり、復活されました。そしてキリストを信じる者は神の支えの御手を常に意識しながら、死という巨大な壁を乗り越え、天の御国へと凱旋することを確信できるのです。
その証拠に、愛する者たちが召される時、その死が何としばしば、私たちを驚かせるような、平安で静かなものであることでしょう。
それは決して偶然ではありません。ある人は、死のことを「神が疲れた兵卒を地上からみもとに召集なさることだ」と、信仰の立場から言っておられました。
また、別の人は病気で死んでゆく状況をさして「神の親切を反映したものだ」とも言っています。
罪赦され、永遠の命を与えられて神の御許にいるという信頼のあるところで、私たちは死という最も無力を感じさせる現実の中で、神の助けが最も強まることを経験するのです。
そして、キリストに受け止められて生きるという命は、死をもって始まるのではなく、すでにもう私たちの中で始まっているのです。
私たちの愛する家族、兄弟姉妹はキリストの御許に安息を得ています。いつか召され、そして復活する時、私たちは、主にあって愛する家族、兄弟姉妹との再会があることを覚え、日々、平安のうちに歩む者でありたいと願います。
お祈りします。