2018年5月20日
ペンテコステ礼拝
松本雅弘牧師
ヨエル書3章1~5節
使徒言行録2章1~21節
Ⅰ.バベルの塔の出来事
ペンテコステと聞くと、私はバベルの塔の出来事(創世記11章)を思い出します。言葉が混乱した出来事です。あの時、人間は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(4節)と思い上がり、計画を実行し始めますが、それを喜ばれなかった神は言葉を混乱させます。
その結果、心が通い合わなくなり、人々は全地に散らされて行ったのです。
17年前、私はブラジルのサルバドールにあるマッタ・デ・サンジョアンの集会を訪問したことがあります。ポルトガル語が全く分かりません。「オブリガード」という、「ありがとうございます」のポルトガル語だけを覚えてブラジルにまいりました。
「言葉がわからない」ということは、本当に心細いものです。サンパウロまでは国際線でしたから英語のアナウンスがありますが、サンパウロからは国内線で、そこは正真正銘のブラジルでした。
やっとサルバドールに到着。空港で出迎えてくださったマッタの教会員の方たちが、日本語で話しかけてくれた時に、なんとも言えない安心感を覚えました。しかも、その時、案内されたレストランの名前が「やまと」でした。大和市民の私にとって、これまた馴染みのある名前で、ホッとしました。
ところで私たちは今でも、同じ日本語を使いながら、日常の生活において心が通じ合わない経験をすることがあります。一番親しい関係においてもそうです。つまり日常的に「バベルの塔の出来事」を経験しているのではないでしょうか。
ヘブル語で「バベル」とは、「混乱」を意味する「バーラル」という言葉から来ています。私たちの周りでは、今現在も、そして世界のあちらこちらで、絶えることなく、そうした混乱が起きています。
Ⅱ.ペンテコステの出来事
ペンテコステの日に起こった出来事は、バベルの塔の出来事と深く関係しています。2千年前のペンテコステには、ちょうどバベルの塔の出来事と正反対の出来事が起こっているのです。
その日、「一同が聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(使徒2:1)とあります。
聖霊をいただいた弟子たちはガリラヤ出身の人々でした。その日、エルサレムには、祭のために世界中から集まって来た人々がいましたが、弟子たちが彼らの言語を語りだしたのです。
バベルの塔の出来事同様に「言葉の奇跡の出来事」が起こりました。ただ、この2つの出来事の間には大きな違いがありました。
ペンテコステのこの日、種々雑多な言語によって語られた内容は1つだったのです。
「奴らは酒によっているだけだ」と言って無視する人々もいました。そこでペトロが立ち上がり、「そうではない。この現象は、聖霊が私たちに与えられ、旧約聖書の預言者ヨエル書の預言が成就したことの結果なのです」と言って、この出来事の原因である聖霊が降ったこと、そしてその聖霊が降ったことの意味、つまりペンテコステの出来事の意味を説き明かしたのです。
聖霊の恵みが行き届く時、そこに集まる人々が、たとえ多くの言語に分かれているような状況にあったとしても、それが単なる混乱や分裂では終わらないというのです。
子どもや若者、壮年や高齢者という複数の世代、世代の違いがあったとしても、共に夢を見、幻を見て将来への希望を共にすることができる。違いを乗り越えて、神にあって互いに通じ合う世界が生み出されて行くのです。
まさに、多様性と統一性が聖霊の働きの中で調和を保つというのです。
私たちも聖霊に導かれ、聖霊に満たされて行く時に、言葉や文化の違いがあっても、同じ神さまに愛され生かされている1人ひとりであることを知らされるのです。そして互いに必要とし合う者同士であることを経験させられていきます。
さらには、神の民である私たちの教会に、このペンテコステの出来事を通して、「キリストの福音の言葉」という、「新しい共通語」が与えられたという恵みを発見するのではないでしょうか。
バベルの塔の出来事以来、人間に与えられている言葉という賜物が、罪によって誤用され、他者を傷つけ、醜く争い、騙し、嘲り、本当に惨めな結果を生み出してきました。それが私たちの歴史でしたが、神は「キリストの福音の言葉」という共通言語を、再び人類に与えてくださったのです。そして、それを大胆に語り伝えるようにと聖霊を与えてくださったということなのです。これが聖霊の降臨によって起こった出来事、ペンテコステであり、その時以来、私たちもこの恵みに与って生かされている、ということでもあるのです。
Ⅲ.コリント教会の信徒が忘れていた霊的現実
ペンテコステの出来事以来、パウロは、主イエスを信じる全ての者に与えられる聖霊について語り、また、教会宛てに記した手紙によって、繰り返し思い起こさせていきます。
ところが一方で、罪や弱さ故に、この現実に心の目が閉ざされている人々もおりました。コリント教会の兄弟姉妹がそうでした。パウロはそうした彼らに向かって、「新しい霊的現実」に生かされていることを教えたのです。
暫く前のクリスチャン新聞に、ある調査結果が出ました。「日本人クリスチャンの平均寿命は3年弱」というものです。大変ショッキングな数字でした。これが事実とするならば大変なことですが、1つ言えることがあります。それほどサタンの誘惑が巧みである、ということです。
神さまから私たちを引き離そうとする力が、常に私たちの周りで働いているのです。そういえば、主イエスも受洗直後に悪魔の誘惑に遭っています。
Ⅳ.聖霊の命が生き生きする方向を選び取る
では、どうしたらよいのでしょうか。
「ぶどうの木につながり続ける」という大原則にいつも立ち帰ることです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、主が言われているからです。
高座教会では「信仰生活の5つの基本」を大切にし、それをもってぶどうの木であるキリストにつながろう、と互いに励まし合いながら歩んでいます。
「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(2:41、42)
このように、聖霊降臨の出来事に与った弟子たち、初代エルサレム教会の人々の信仰生活の様子が使徒言行録に記されています。
私たちの教会が大事にしている、「信仰生活の5つの基本」は、まさにここに出て来る、彼ら初代教会の兄弟姉妹の歩みそのものなのです。
受洗後勉強会で次のようなお話をします。魚は何故、水の中をスイスイと泳ぐことが出来るのか。それは魚の命を持っているからでしょう。なぜ鳥は空を自由自在に飛ぶことが出来るのか。鳥の命を持っているからです。
ただ、鳥の命を持っていてもヒナ鳥は簡単に羽ばたくことができません。けれども、鳥の命が大きく成長すると、大空を自由に羽ばたく日がやって来ます。魚もそうです。魚の命があっても、誕生したばかりの魚は、最初は物陰や岩の陰に隠れているだけでしょう。流れに逆らい、勢いよく上流に向かって泳いだり、滝を登ったりすることはできません。しかし、やがて大きな魚になると滝を登り、自由自在に泳ぎまわることが出来るようになる。何故でしょうか。魚の命が成長していくからです。
私たちクリスチャンも同じです。聖霊をいただいている私たちが、「信仰生活の5つの基本」を通して、ぶどうの木であるキリストにつながることで、ぶどうの木であるキリストから枝である私たちに、聖霊の命が流れてくるのです。それによって、私たちは聖霊の実を結ぶ者とされていくのです。
そして、その聖霊の働きの1つの側面が、今日の説教題とした「4世代が喜び集う教会」が実現する、ということです。それが、使徒言行録2章16節から21節に出てきます。
「わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(17b)
聖霊が降り、聖霊の命が行きわたる時に、「あなたたち」を基点に、「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と4世代の者たちが愛し合い、主を証しする共同体になるとの約束が語られています。新しい命が成長し、共同体は「4世代からなる教会」が形成されていくのです。
4世代という多様性がありつつも、そこには聖霊による一致があるのです。
使徒言行録2章に登場する初代教会は生き生きしていました。彼らは聖霊をいただき、聖霊に満たされ、その満たしを常に経験するために、ぶどうの木であるキリストにつながり続ける中でそうなっていったのです。キリストにつながり、つながり続ける「恵みの循環」が始まっていきました。
同じ聖霊が私たちにも与えられています。聖霊による命がいよいよ成長し、この地域の人々をキリストの福音で満たすために、私たちは福音をもって仕えていきます。
私たち一人ひとりが、「信仰生活の5つの基本」を生活の土台にすえてキリストにしっかりと結び付き、「3つのめざすもの」を活動の柱として仕えていきたいと思います。
ぞれぞれの世代が、キリストにあってその違いを乗り越え、初代教会のように、共に喜び集える高座教会を、主が御建てくださるようにと祈り求めていきたいと願います。お祈りします。