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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

人を汚すもの、人を生かすもの

洗礼・転入会式

2018年6月3日
松本雅弘牧師
ヨエル書2章12~17節
マタイによる福音書15章1~20節

Ⅰ.手を洗ったか、洗わなかったか

1つの事件が起きました。ファリサイ派の人々、そして律法学者がやって来て、主イエスの弟子たちが、食事前に手を洗わなかったことを咎め、それによって主イエスとの間に論争が起こったのです。
当時のユダヤ教は、食事は神聖で、それは清められた時であり、食物に触れる手が汚れていることは許されないことでした。そのため食前に手を洗うことを教えられていました。それも洗い方に関する具体的な規定が「言い伝え」として継承されていたのです。
その「言い伝え」を守らないことは、神の神聖さを軽んじ、清い生活を重んじていないと見なされました。ファリサイ派や律法学者たちは、このことで主イエスを咎めたのです。しかも、そのことのためにわざわざ、遠いエルサレムからやって来るほどでした。
この出来事は一見、他愛もない事が原因の論争に見えますが、実はこれを契機に、主と当時の指導者との間に、闘いの火ぶたが切って落とされていくのです。
主イエスはそのことを承知だったと思います。ですから「偽善者たちよ」と、敢えて事を荒立てる挑発的な言葉を、面と向かって彼らに浴びせるのです。
普段は柔和なイエスさまが、なぜ、と思うほどです。理由は明らかです。怒っておられたからです。それは、彼らが「自分たちの言い伝えによって神の言葉を無にしてい」たからです。

Ⅱ.主イエスによる反論

「神の言葉を無にする」とはどういうことでしょうか。
ある年老いた夫婦に息子がいたとします。両親の生活ぶりを見た息子が、家にある、ある物をあげれば両親はどんなにか助かり、喜ぶだろうと考えました。しかもそのことは「父と母を敬え」という教えに適う行為でもあります。
でも一方で、その物を手元に置いておきたいという思いもありました。そこで、そのような時に息子が「お父さん、お母さん、悪いけど、これは“供え物―コルバン”と決めた。神に捧げることにしたから、悪しからず。」と言うことによって、その物は「父母に与えないでよい」という「言い伝え」がありました。「コルバン/供え物」と宣言した息子は「言い伝え」により、実際に両親に物をあげる義務を免除されたのです。
ここで主イエスは、そうした「言い伝え」は、聖書の教えに反すると言われました。そして、「偽善者たちよ。イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ」(7節)と言って、イザヤ書の聖句を引用し、彼らファリサイ派と律法学者の行為を糾弾したのです。

Ⅲ.人を汚すもの

イエスに「偽善者」呼ばわりされ、反論できないほど論破されてしまったファリサイ派、律法学者たちは、このイエスの言動につまずきました。ここで言う「つまずく」とは、「カンカンになって怒っている」という意味があります。弟子たちから、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのを御存知ですか」と言われ、それを知った主イエスは、次のように語られました。
「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と。
旧約聖書は、イスラエルの民を「神に植えられた木」と表現しています。自分たちは神に植えられた特別な存在だ。従って誰も引き抜くことはできない。必ず成長し、実を結ぶという確信です。
しかし現実は、ユダヤは当時、ローマの支配下にあり、以前から何度も異邦人の国によって支配され続けてきたのです。そのような中で、なおも自分たちの信仰、民族としての誇りを守ろうと考えた人々、その代表がファリサイ派の人であり律法学者であって、彼らは自分たちを「まことのイスラエル」と呼び「神に植えられ選ばれし者」との誇りを持って生きていたのです。
ところが主イエスは、その彼らについて「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう」と言われたのです。
これはかなりの問題発言です。誰よりも聖書を熱心に学び、ひたすら御言葉に生きようと努めていた彼らに対して、「ファリサイ派の人々、彼らは天の父がお植えになった者ではない。だから必ず抜き取られる」と、イエスは言われたのです。
彼らがつまずき、カンカンになって怒るのは無理のない話です。しかし、主イエスは彼らが怒り狂うこと、そのことを百も承知の上でそう断言なさったのではないでしょうか。
今日、高座教会は、新しい神の民、洗礼・入会者を迎えます。私たちが信仰生活を始められるのは、イエスさまの言葉によれば、神さまが植えてくださったからでしょう。だから私たちは信仰生活のスタートを切ることができるのです。
ファリサイ派の人々もそうでした。ところが、主イエスは「しかし」と言われます。「しかし、今の彼らの生き方は違う」とおっしゃるのです。
聖公会の牧師であり聖書注解者であったジョン・ストットは、ファリサイ派の生き方、彼らの信仰のあり方について、神の言葉の周囲に規則や律法という垣根を張り巡らしてしまった状態と表現しています。
御言葉は「神を愛し、隣人を愛する」と教えているのだとジョン・ストットは言います。
ファリサイ派は、その御言葉の周囲に、言い伝えや規則という垣根を設け、「そうした規則を守る事で神を愛したことにしましょう。隣人を大事にしたことにしましょう」と言って、神を愛し、隣人を愛することを、その時、その場面で主に祈り求め、真剣に考え、葛藤することをさせないのです。
そういう信仰のあり方は、結局、神さまを愛する、隣人を愛することを抜きにしても成立する、安心を得るための道具のようなものです。そうした宗教の在り方には、さらにもう1つの落とし穴があります。規則に従わない人を批判し、裁き始めるのです。そこには、巧みな自己正当化が潜んでいます。そうなって来ると聖書の信仰から完全に離れ変質してしまうのです。
さてこれまでは、群衆が主イエスの方にやって来たのですが、この時、主は群衆を呼び寄せて語っておられるのです。何故なら、どうしても語っておかなければならないことがあったからです。
そのようにして集められた群衆に向かって、イエス様が語った言葉が、ファリサイ派の人々に対する警告の言葉でした。群衆はファリサイ派ではないから清い、と言われたわけではありません。むしろ、「ファリサイ派の人々ですら、この心の罪を逃れることができないとするならば、あなたたちはどうですか」と群衆に向かってイエスさまは問うておられるのです。

Ⅳ.人を生かすもの― 心を裂き、神に立ち帰る

私たちは、どうでしょうか。正直、イエスさまのこの迫りの言葉を聞くと、下を向いてしまうかもしれません。確かにもう少し真剣に信仰生活を送りたい、真面目に人を愛したいと思います。でも、自分には力がありません、だから肩を落とし、下を向きながらつぶやくのが精一杯かもしれません。それでは、私たちは「ファリサイ派の人々ですら、この心の罪を逃れることができないとするならば、あなたたちはどうですか」という、この主イエスの迫り、この言葉にどう向き合ったらよいのでしょうか。
このことを考える上で、今日、お読みした旧約聖書の箇所を開いてみたいと思います。ヨエル書に挑戦的な言葉が出て来ます。
「『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」(2章17節b)
神の民の生活を見ている人々が、「彼らの神はどこにいるのか。あなたがたの生活を見ていたら、あなたがたが、信じている神がおられるなんて、信じられない」と言った。そうした時、私たちは「これでは、あなたが生きておられるという証しが立ちませんから、どうにかしてください」と、主に訴えることが許されているのです。神の民が負う恥は神の恥なのだから、というのです。
ヘブライ人への手紙に、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とありますが、私たちはファリサイ派の人々と全く同様に、聖なる神さまの御前にさらされる時、その審きには耐えられない存在です。しかし、それでもなお、私たちに与えられ、許されている祈りがあるのです。
それが、「『彼らの神はどこにいるのか』と/なぜ諸国の民に言わせておかれるのですか。」という神への祈りだというのです。
それと共に、私たちの側の責任が語られています。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。」(ヨエル書2:12、13a)
衣服を裂くだけでなく、実際に心を裂き、神に立ち帰って行きなさいと主は言われます。何故なら主イエスご自身が十字架の上で自らを裂いてくださったからです。
そしてこのように、ファリサイ派の人々を責めたてながらも、結局は滅ぼすことを主イエスはなさいませんでした。いやむしろ逆に、ある人の言葉を使えば「植え直し」てくださるのです。
私たちに対しても、イエスさまは同じように関わってくださるのです。「兄弟の罪を、何回赦すべきでしょうか」と問うペトロに対して、「七回どころか七の七十倍まで」と言われるお方が、私たちの神であり、
そのお方こそ、私たちを生かす主なるイエス・キリストだからです。お祈りします。