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主日共同の礼拝説教

心配から信頼へ

2018年6月10日
松本雅弘牧師
詩編127編1~2節
マタイによる福音書6章25~34節

Ⅰ.時間泥棒との戦い

神学校の校長先生が私たち学生に1冊の児童書、『モモ』(ミヒャエル・エンデ作)を紹介してくださいました。
主人公の少女モモは、痩せっぽちで、いつもボロ服を着ています。ただ、とても不思議な子で、彼女が居ると、憎しみ合う2人は仲良くなり、子どもたちの遊びも不思議と素晴らしく楽しいものになるのです。人生を諦めかけた人も、彼女に話を聞いてもらうと心の内に勇気が湧いてくるのです。
ところが本を読み進んでいくと、次第に街の様子が変化してきます。より幸せな人生、より豊かな暮らしを求めて人々の生活が忙しくなって来るのです。明日の成功を勝ち取るために、1秒の時間も無駄にできません。確かにお金は貯まり、生活も便利で快適になる。でも、反面、人々の心に落ち着きがなくなり、不機嫌で怒りっぽくなっていきました。その原因は何でしょうか。物語では「時間泥棒」が時間を盗んでいたからだ、という話です。
そして、人々は「子どもは未来の人的資源だ」と考え、将来は専門職が多く必要になる。だから未来に備えて、遊びに浪費させるのではなく、今からしっかり教育することが大事だ、と言って「子どもの家」という教育施設を作るのです。
その施設の様子が描かれています。「こういうところでなにかじぶんで遊びを工夫することなど、もちろん許されるはずもありません。遊びを決めるのは監督のおとなで、しかもその遊びときたら、何か役に立つことを覚えさせるためのものばかりです。こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れていきました。ほかのあること、つまりそれは、楽しいと思うこと、夢中になること、夢見ることです。」
いかがでしょう。大人たちが教育の名のもとに効率や利益を優先させる。その結果、子どもの生活は損なわれていくのです。効率と損得の物差しが優先すると、必ず、切り捨てが生まれます。お金儲けにつながらないことは後回しに、お金儲けにつながらない子どもたちは次第に疎んじられていくのです。
子どもたちは自分がそうした扱いを受けていることを知りませんから、悲しいことに、その被害を黙って、その心と身体とで受けとめていってしまうのです。
この本を校長先生に勧められた時、正直、〈子どもの本でしょ…〉と思っていました。〈でも校長先生が勧めてくださるのだから、まあ、読みましょう…〉と手に取った書物です。
ところが読んでみると、まさに、現代社会を予言するような内容で、あれから30年以上経った今も、キラッと光るような言葉に出会います。それどころか、聖書のメッセージと響き合うように思うのです。
ところで、この『モモ』のテーマは、時間泥棒との戦いです。時間を奪われた人々の心に植え付けられた物語は、「『今、この時』は明日に向けての準備の時」という物語であることが分かります。「『今、この時』は明日に向けての準備の時」という偽りの物語によって、私たちの日々が、そして、ひと時ひと時が翻弄され、忙しくなり、大切なものが損なわれていくのです。

Ⅱ.「今、この時」に生きることから遠ざけるもの

イエスさまはそうした私たちを、「時間泥棒」から取り戻そうと御言葉を語ってくださいました。
イエスさまは「思い悩むな」と言われます。私たちにとっての悩み、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という実際的な思い悩みを、イエスさまはひと言でまとめた言葉で語っておられます。それは「明日を思い悩む」ということです。
「『今、この時』が、明日に向けての準備の時」と言われたならば、私たち誰もが焦りを覚えるのではないでしょうか。明日、何が起こるのか誰にも分かりません。そうしたことを考えれば考える程、私たちの心は不安にさせられていきます。ですから、明日に向けての準備のために、大事なことを犠牲にし、今の時を、アクセクと過ごしてしまうのです。
幼稚園は小学校へ行くための準備、小学校は中学校へ行くための準備、高校は大学受験のための準備、大学は就職のための準備、会社での働きは老後の準備…、そうやって来ると、退職後は何のための準備となるのでしょう。
最近、『終わった人』という映画の宣伝を目にしました。映画化されるとは知らずに、今年の始めに原作を読んだところでした。
主人公はまさに、「『今、この時』が明日に向けての準備の時」という物語をずっと信じて定年を迎え、定年になってみて、実は、その物語が通用しないという経験をする人です。
私たちが思い悩み始めると、悩みの種は、掃いて捨てるほどに、次々と思いつくものだと思います。次から次へと、思い悩みの種は、尽きることがありません。
イエスさまは「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:34)と言われました。
空の鳥、野の花をよく見なさい。神の造られた自然世界を注意して観察して御覧なさいとイエスさまは勧めます。
そうすると、本当に不思議なのですが、空の鳥は養われ、さえずり飛び交っている。野の花も綺麗な花を咲かせている。空の鳥、野の花でさえそうであるならば、まして、あなたがたはなおさらのことではないか、とイエスさまはおっしゃるのです。
空の鳥が自分たちだけで生きているのではなく、野の花も自分たちの力で装っているのではない。空の鳥も、そして野の花も、神さまによって養われ、生かされている存在なのですよ。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(26節)と言われ、あなたがたを守り養う神さまがおられることを知りなさい、とおっしゃるのです。

Ⅲ.今、この時を生きる

『モモ』によれば、「子どもは未来の人的資源だ」ということで、子どもたちにとって「今、この時」しかできない遊びを、「役にもたたない遊び」と呼んで、子どもたちから取り上げてしまおうとしています。
そして、「これからは、ジェット機と電子頭脳の時代になる。こういう機械をぜんぶ使いこなせるようにするには、たくさんの専門技術者が必要だ。そうした人材になるように、今から、将来に備えて、準備をしていきましょう。役に立たない遊びで、貴重な時間を浪費することを避けましょう」ということで、「子どもの家」という教育機関を作るわけです。
これによって、何が起こったか、と言えば、子どもたちにとって、「今」しかできないこと、「今ならではのもの」としての「遊び」が取り上げられていくのです。
聖書の御言葉によれば、3歳の子は3歳らしく、4歳の子も4歳の子らしく、5歳は5歳らしく、そしてその子はその子らしく、生きることが大切でしょう。「今」の、そうした“らしさ”はダメ、もっとこうなるために準備をし、頑張りましょうと、神さまは決して強いることはありません。むしろ、「今」ならではの味を出し切って生きるように、それを子どもたちに、そして、私たちに、神さまは求めておられるのです。次への準備のために、今、この時を損なってはいけないのです。「今」を、「今」ならではのものとして存分に生きること、そのことこそが、実は、次への最良の準備となると、神さまはわたしたちに教えておられます。

Ⅳ.人生の旅を楽しむために

ある年配の牧師夫人が子育て中の牧師夫人たちに向かって語ったメッセージを聴いたことがあります。
子どもが小さい時には、なかなか子育てを楽しめない。ただ過ぎ去ることだけを願ってしまう。でも少しだけ長く旅をしてきた者にとっては、〈もっとゆっくり、その時々を味わって生きてこられたらよかった〉と思うのが実感です。
そして、牧師夫人は「私にとって人生で一番素晴らしい、そして、懐かしい香りは、お風呂上がりの、赤ちゃんのお頭(オツム)の香りです」と、しみじみ語りかけていました。これを聴いて、私も納得してしまいました。改めて、「今、この時」を生きることは、神さまが私たちに願っておられることであり、また、今の時を生きるって楽しいんだ、と実感することが、神さまからのプレゼントなのだと思わされたのです。
聖書も人生を旅にたとえて語ります。人生の旅の途中に、四季折々の喜びを主は備え、楽しませてくださいます。目的地に向かって一目散に突っ走るだけでなく、旅の途中、旅そのものの中にこそ目的があり、色々な景色を見、人々と出会い、様々な経験を喜んで生きるのです。きわめて人間らしい生き方でしょう。そのことを楽しみながら、私たちは主と共に歩むことが許されています。
旅の同伴者である主は、『あしあと-フットプリンツ』の詩のように、ある時は背負ってくださり、時に叱り、励まし、慰めて共に歩いてくださいます。このお方がおられることを心の目を開いて見続けて行く、それが時間泥棒から解放し、「今、この時」を生きる喜びで私たちを満たしていただける人生の旅なのです。
私たちの人生の旅、私たちの日々の歩みを、心配から、信頼へと導いていただきたいと願います。お祈りします。