2018年6月17日
松本雅弘牧師
詩編63編2~12節
マタイによる福音書15章21~28節
Ⅰ.主イエスによる拒絶
「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた」。
ティルスとシドンというのは地中海沿岸の北部都市でユダヤ人からすれば辺境の地、異教徒の地、誰も行きたがらない場所でした。
そこにやってきた主イエスの一行を、意外な人が追いかけてきたのです。それは、この地方出身の1人のカナン人女性です。
その彼女がこう叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
「ダビデの子」とはイスラエルに対する救いを約束する言葉、「救い主」と言う意味です。彼女が用いた「ダビデの子」とは、あくまでもユダヤ人を救う救い主の呼び名です。
ここで、カナン人の彼女がユダヤ人の救い主に助けを求めているのです。周りにカナン人がいたかもしれない。彼女の口から飛び出した、その言葉に周りの人たちは驚き、あっけにとられたのではないでしょうか。ただそこには理由がありました。それほどまでに彼女は切羽詰まっていたからです。
ところが、主はこれに対して何もお答えにならなかったのです。たまりかねた弟子たちが主イエスに執り成すのですが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」(24節)と、冷たい返答でした。
しかし彼女はめげません。弟子たちと主イエスとが話をしている、その間にスッと入るように近寄り、御前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください。」と嘆願したのです。
彼女が使った「お助けください」という言葉は、「人の悲鳴を聞いて駆けつける」という意味の言葉だそうです。彼女はこの言葉を主イエスに向けて使ったのです。それは、まさにこの時の彼女が置かれている状況がそうだったから、溺れかかっているような状況だったからです。
こう訴えられてしまったのですから、主イエスは振り向かざるを得なかったでしょう。ところが振り向いたイエスさまが彼女に言った言葉が、これまた意味不明なのです。
「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」というものでした。これは3回目の肩すかし、拒絶です。
最初の拒絶は23節、「何もお答えにならなかった」。2度目は24節、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」です。
神さまがおられる。それも実に立派な愛の神さまです。ところが、その立派な愛のお方が全く沈黙しているだけなのです。御顔をこちらに向けてくださらなければ、何の意味もありません。いや、やっとのことで振り向いてくださったにもかかわらず、「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」なんて言うだけの神でしたら、むしろ絶望は深まるだけでしょう。
Ⅱ.3回目の拒絶
ここで、主イエスはユダヤ人を子どもにたとえ、彼女たち異邦人を犬にたとえられました。これは一種の侮辱でしょう。
しかも彼女1人だけでなくカナン民族全体を侮辱する言葉です。ここまで言われれば、言われた方は憎まれ口をたたいて去って行くしかないでしょう。
けれども、彼女は負けていません。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と訴えたのです。
このように冷静に、主イエスの一枚上を行くように、主が使った言葉を用いながら、上手に軌道修正し、自分の主張に結び付けていくのです。本当に冷静で賢い女性です。
それほどまでに、彼女は主の憐れみを必要としていたのでしょう。22節、25節、そして27節と、この時すでに三度、彼女は「主よ、主よ、主よ」とイエス・キリストに訴えかけています。
そして、とうとう主は、この彼女の訴えにお答えになったのです。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(28節)
そしてこの瞬間、遠く離れたところにいた娘の病気が癒されました。何かホッとします。
Ⅲ.大きな信仰
ここで主は、「あなたの信仰は立派だ」と言われました。この「立派だ」という言葉は、原文では「大きい」という言葉です。ですから直訳すれば、「大きいな! あなたの信仰は!」となります。
これ以前に、弟子たちに対しては「何と信仰の小さい者たちよ。」と言われているのです。ところが、名もないこのカナンの女に向かっては、「大きいな! あなたの信仰は!」と褒められたのです。彼女は何を褒められたのでしょうか。説教を準備しながら、私はこの違いについて考えてきました。
1つだけはっきりしていることがあるように思います。それは、ここでイエスさまの方がお考えを変えた、ということ。それも、この女性の信仰の大きさの故にそうなった、ということです。
Ⅳ.喜んで負ける主イエス
主イエスは論争の名手です。次々と吹きかけられる議論でも決して負けません。ところが今日のところでは、主が負けておられます。しかも、何か喜んで負けておられるように思えるのです。ある牧師が語っていました。主イエスの笑顔が見えるようだ、と。
マタイ福音書には、主イエスの大切な宣教命令の言葉が2回出て来ます。その1つが、福音書の最後28章の派遣命令で、もう1つは10章5節と6節に出て来る言葉です。
10章の方は、「異邦人の道へ行ってはならない。…イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい」と、派遣先が限定されています。
これに対して、2回目の宣教命令は「あなたがたは行って、すべての民を…」とあります。
1回目と2回目の間には、大きな変化があります。ここで、カナンの女性の願いに対して語った主イエスの言葉は、1回目の派遣の言葉と同じ内容です。彼女を全く相手にしていないのです。
ところが、彼女は必死になって助けを求め続けます。しつこく、しつこく主に訴えるのです。
その結果、主イエスはまるで降参でもするように「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言って、娘の病気を癒されたのです。
聖書の専門家の中には、このしつこいカナンの女性に出会って、主イエスご自身の意識が変わっていったのだ、と解説しています。
主は名もない異邦人の女性との出会いによってご自分の宣教方針を変えられたのかもしれない。もっと豊かな方向、愛情深い方向に変えて行かれたのです。
偉大な人に出会って影響を受けたのではないのです。全く弱い、力のない人との出会いによって主イエスの方針は変わってしまったのです。そこで本当のメシア、救い主としての使命を意識され、十字架へと向かって行かれました。
そして復活の後、最初に墓に行った婦人たちに、「兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(マタイ28:10)とおっしゃいました。復活の主は、あの異邦人の地ガリラヤで弟子たちに会われたのです。
それはまさに、ユダヤ人だけではなく、「すべての民に」、すべての人に救いを、という主イエスの福音のメッセージと調和するのではないでしょうか。
そう言えば主イエスは、天の国はパン種のようなものだと、教えてくださいました。「女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」(13:33)と語られました。
小麦粉にパン種が入ると膨らんでパンになる、というのです。
パン種、それは全体の小麦粉にとっては、ある意味、異物です。何か違うものです。でも小麦粉の中にパン種が入らないとパンにならないのです。膨らまない。これは、まさに教会のたとえのように思うのです。
自分たちだけで分かり合い、お互い仲良くやっているだけでは、全く膨らまない。確かに楽しいかもしれない。それなりに充実感もあり、安定感もあります。でも膨らまなければ美味しいパンにはならないのです。そのためにはどうしても、パン種という異物、まったく違う異質なものが入り、化学反応が起きなければ難しいのです。
私たちは、どうしてもこのパン種/異物を恐れる傾向があります。そして逆に、それを取り除こうとするのです。
でも、パン種が入らなければ膨らみません。ですから、私たちが自分たちの内に、どれだけパン種を取り入れて、神さまに膨らませていただけるのか。膨らまそうとするのか、そのことが問われているのだと思いました。
そして、イエスさまにとってパン種とは、まさにこのカナンの女性だったのではないでしょうか。
イエスさまはおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)
イエス・キリストは、この言葉が真実であることを、このカナンの女性に対して示してくださいました。真実な思いには真実をもって、時には喜んで負けることをもって応えてくださるのです。
一見、神さまから見放されたように見える時、突き放されたように思える時、実は、私たちの信仰が試されているのです。私たちも、この女性のように、主に食い下がっていく信仰をもちたいと願います。お祈りします。