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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

キリストの割礼

2018年6月24日
和田一郎副牧師
創世記17章9~14節
コロサイの信徒への手紙2章11~12節

1、キリストの割礼

今日の聖書箇所の11節の最初に、パウロは「あなたがたは」と、ありますが、これはコロサイ教会の人々に向けて、パウロが励ましのメッセージを送っているのですが、これはそのまま私たちに向けて、「高座教会のあなたがたは」とも受け取れるメッセージです。
あなたがたは洗礼を受けている。それは「手によらない割礼」です。ここを丁寧に訳すと、「人の手によらない割礼」となります。つまり人間の力ではない、霊的な割礼をあなた方は受けているのです。「割礼」という言葉は、先ほど読みました創世記17章で初めて出てくる言葉です。アブラハムが神様と契約を交わしたアブラハム契約の場面ですが、そこで神様との契約のしるしとして、割礼を施すことを命じられました。割礼は男性の生殖器の包皮を切り取るという痛々しいものですが、これは人間の罪の汚れを取り除いて、神様に受け入れていただく「しるし」を意味していました。「しるし」とは言っても、単なる儀式や外見的なものではありませんでした。預言者エレミヤは「心の割礼」であることを強調していて、割礼は霊的なもの、イスラエルの民が神の民であるのは外見だけではなくて、心の内側にあるものが、きよめられることを意味していました。
それが新約聖書の時代になって、割礼に代わるものが洗礼となりました。11節の後半にある「肉の体を脱ぎ捨てる、キリストの割礼」とは、汚れた人間の罪の性質を脱ぎ捨てるための、キリストによる、新しいしるしです。

2、私たちはキリストと共に「葬られた」

12節には「洗礼によって、キリストと共に葬られ」た、とあります。「葬られた」のは古い自分です。イエス様は十字架に架かられて死んで葬られました。しかし、私たちが、キリストの死と葬りに預かっていることは、あまり意識していないかも知れません。パウロはコロサイの教会や私たちに向けて、古い私たちは死んで葬られたこと、そして、私たちの命は今キリストと共にあることを思い出させてくれます。私たちはキリストと共に十字架にはかかりませんでしたが、キリストの死と葬りに参与しています。違った意味で、私たちは死んで葬られたのです。古い生き方に生きていた頃は、人から評価されることが自分の価値だと思ったり、目に見えないものよりも、目に見えるものに目が奪われて追いかけていました。そういった、かつての自分の価値観を葬ってくださいました。新しい生き方が始まっているのです。
ある青年が心の中で葛藤していました。自分が貪欲で、人の為に何かしようとか優しく振舞おうとしても、それができなくて、反対に人を傷つける言葉や態度をとってしまいました。何で自分は、いつもこうなのだろう。ほとほと自分が嫌になっていた時、田舎に帰って御婆さんに話したそうです。「もう自分が嫌になって、死んじゃいたいよ」。するとお婆さんは、穏やかな顔をして「そうだね、いっそ死んじゃった方がいいかもね」と答えたと言うのです。その青年はビックリしました。「死んでしまったらお終いだよ」とか「生きていればいい事がある」と、言ってくれると思ったのです。現実に悩みを抱えている人からして見ると、生きているということは、まさにそのことが苦しいのに、それでも「生きろ」と言われてしまうとプレッシャーになります。しかし、その青年は「死んじゃった方がいいかもね」と言われた時、不思議と楽になって「生きようと思った」というのです。おそらく御婆さんは本気で「死んだらいい」と言ったのではないと思いますが、青年がしがみ付いていた何かが、お婆さんの言葉で消えて、力が出てきたのです。

3、私たちはキリストと共に「復活」した

パウロは、ここで古い自分はキリストと共に葬られたと言います。古い自分には死んでもらわないと、次には行けないものです。しかし、死んで終わりにはなりません。
12節「キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」
わたしたちクリスチャンは、イエス様の復活にも、すでに与かっていることにも、どこか実感をもてないかも知れません。イエス様は十字架の死から復活されました。それと同じ力が私たちの中にも働いています。パウロは2コリントの手紙でも同じように語っています。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」2コリント5:17
わたしたちは洗礼を受けた時に、キリストによって新しくされました。私たちは新しい自分を身に着けて、日々新しくされていきます。これは自分の行いによるものではありません。つまり、神様の力によってであり、それはイエス様を墓から甦らされたのと同じ力です。私たちはこの力をもって、日々、復活した者として進んで行くことができます。イエス様の復活は自分の復活でもあります。同じコロサイ書の3章10には、私たちは、日々新しくされて生きるとパウロは言っています。「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」コロサイ3:10。
先ほどは、古い自分に死なないと、次には行けないと言いました。死の次は復活です。
霊的には、イエス様が死んで葬られたように、同じ神の力をもって、日々復活させられるのです。私たちは毎日、聖書の御言葉に生かされます。聖書の言葉に触れる時、古い自分が死んで、新しい自分が生れます。毎日この力をもって、死んだ者だけれども、また復活した者として、また一歩前に踏み出せます。生きている間に「何回死んで、何回生まれ変われるか」ということの中に、キリスト者として生きる醍醐味があるのではないでしょうか。

4、そして「復活」は今を生きる希望

キリストの復活は、いつかやがてやってくる、私たちの希望でもあります。昨日は、「天国への引っ越しに備えて」といって、死に備えるというセミナーがありました。キリスト教の考える死には、その先に復活という希望があるのが特徴です。そのことをシンボルとなる花を通して話しをしました。日本を代表する花である桜ほど、日本人に愛されてきた花はないかも知れません。桜はぱっと咲いて、ぱっと散ります。美しさと、はかなさを感じさせます。それが日本人の死生観を表していると言われます。戦争当時は「国家のために命を捨てる日本人」というイデオロギーを意図的に作り上げられました。人の命とは「はかないもの」、それは美しい、という死生観と結びついています。
一方でキリスト教会では、「ゆり」を復活のシンボルとしてきました。冬の長い眠りのあと、土の中の堅い球根から新しい命をみせる様子を復活のシンボルとしてきました。白い花の色はキリストの純潔、花びらを正面から見た形はダビデの星、花の中央のめしべの先には三位一体のしるし、そして全体の形は終末の時に吹かれるラッパの形です。「ゆり」は復活の希望を表しています。決してはかなく散って消えてしまうものではありません。キリストを復活させられた神の力によって、私たちは洗礼を受けた時にも、新しい命に変えられ、日々御言葉によって新しく変えられ、やがて死が訪れても、その先に復活という希望があり、その希望の中を生きています。自分に死んで、キリストに生きることが、私たちの中で成されていく、これが神からの恵みとして与えられました。
今日、皆さんにお願いしたいことは、この一週間も日々、古い自分に死んでもらいたいということです。それは「傲慢な自分」でしょうか、「弱虫な自分」でしょうか。古い自分に死んで新しい自分を生きるために、神様の力に信頼していきましょう。お祈りします。