2018年7月8日
松本雅弘牧師
イザヤ書43章1、4節
マルコによる福音書5章1~20節
Ⅰ.子どもが輝く10のメッセージ
クリスチャンの精神科医の佐々木正美先生がその著書『抱きしめよう、わが子のぜんぶ』の中で、「思春期の子が輝く10のメッセージ」を挙げておられます。それら一つひとつは子どもを愛することの具体的な表現です。
子どもたちは自分が大事にされることを通して、自分を大事にする子として成長し、そしてまた、自分を大事にする子は、必ず周りの人たちを大切にする人として生きることができる、というメッセージです。
佐々木先生の「10のメッセージ」は、親である私たちには、出来ることと出来ないことがあるのだから、あまり焦らないで、どうにもならないことについては、神さまに任せることが大事ですよ、と優しく諭しておられるように感じるのです。
Ⅱ.ゲラサの男の話
墓場を住処とする男がいました。鎖でつないでおいても引きちぎってしまうほどの怪力の持ち主で、彼は昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分を打ちたたいたりしていたと、今日の聖書個所に出て来ます。
こうした絶望的な状況に置かれていた彼と、主イエスは出会われました。そして、彼に本当に大切な質問をしたのです。
それは、「名は何というのか」という質問でした。この質問に対して彼は「レギオン」、つまり「大勢」と答えました。言い換えれば、「多くの名がある」と答えたことになります。
この答えは、この時の彼自身の状況を表わしていたと思います。自分が一体、誰なのかが分からなくなってしまっていたのでしょう。自分の中に、色々な自分があって、いったいどれが本当の自分なのかが分からなくなり、混乱している状態です。
この個所を読むたびに、この男は、親や周囲から、色々な期待をかけられて大きくなった人物だったのではないかと、いつも思います。
「何々ちゃん、こうなるとイイネ」とか、「ママはあなたに、こうなって欲しいなぁ」とか、表現の仕方は色々でしょうが、親や周囲から色々な期待を受け、言葉かけを受け続けて来たのではないかと思うのです。そうした言葉の一つひとつが、ある意味で、ここで言うところの名前です。役割です。
基本的に子どもは素直です。お母さんやお父さんが好きですから、一生懸命、親や周りの人たちの期待に応えようとするでしょう。その結果、自分が誰なのか、つまり、「自分の本当の名」が分からなくなってしまっていたのではないかと思うのです。
よく考えてみると、「こうなるとイイネ」とか、「こうなって欲しいなぁ」という期待の言葉は、言われた側にとっては重たい言葉です。
佐々木先生の「子どもが輝く10のメッセージ」の中に、「『あなたはあなたのままでいい』これは子どもだけでなく、お父さんお母さんへのメッセージでもあります」と書かれていました。このゲラサの男の話は、まさに、その逆を行ってしまっているのです。
佐々木先生の「10のメッセージ」の根底に流れているのは、この「あなたはあなたのままでいい」というメッセージです。「何々ちゃん、こうなるとイイネ」、「こうなって欲しいなぁ」というのは、少し強い表現を使えば、「あなたはあなたのままではダメ。もっと、こうならなくっちゃ・・・」という、言わば、「現状の否定」の言葉なのです。まともに受けとめる方としては、本当に辛い言葉です。
大分前に話題になった本に、ロバート・フルガムという人が書いた、『人生で必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という、少し長い題名の本がありました。その本の中に、このような話が紹介されています。
「南太平洋ソロモン諸島では、木を伐るのに不思議なやり方をする。もし、あまりにも太くて手におえない木があると、人々は怒鳴りつけてその木を倒してしまうのだ。特殊な能力をもった樵(きこり)たちが夜明けにそっと木にしのび寄って、いきなり、声の限りにわめきたてる。これを毎朝欠かさず30日間続けると、ついに、その木は衰えて倒れてしまう。人の怒鳴り声が木の精を殺してしまうからだそうだ。」
〈本当に、そうなのかなぁ〉と思うような話ですが、著者はこう結論を述べています。「もし、木でさえ倒れるのだったら、まして、感じる心を持った人間にはもっと恐ろしい効果があるだろう」と。
Ⅲ.「よい子」という名の病?
もう1冊、心に浮かぶ本がありました。春日耕夫著、『「よい子」という名の病』です。そこには、「よい子」という名の病にかかった子どもたちが出て来るのですが、どこか今日のゲラサの男と重なって考えさせられました。
「『よい子』という名の病」というのは、子どもが、親や周囲の人の願いや、「こうあって欲しい」という期待に、一生懸命答えようとしてきたあまり、自分を見失ってしまう。親が用意したシナリオの通りに生きようとしてきたが、でもどこかで行き詰まり、無理が生じ、結果として、もう力が入らなくなってしまった子どもたちです。
その1人がこんな詩を書いています。
「もう誰とも話したくない。/話しをすれば自分をよく見せようとして/自分をずたずたにしてしまうだろう/人魚姫のように魔法使いの所に行って/舌を抜いてもらいたい/そうすれば/話したくても話さないから/そんな失敗をしないですむ」
著者は、この詩について次のように解説しています。「誰か他の人と話すとき、私は自分が本当に言いたいこと、自分が本当に思うことを言うのではなく、まわりから承認され賞賛されるようなことを言ってしまう。なぜなら、私は他者の前では自分のままでいることができず、他者に承認され賞賛される存在にならなければならなくさせられた『よい子』だから。そうして私は自分を欺き、『本当の』自分と『偽りの』自分とに自分を引き裂き、自分をずたずたに傷つけてしまう。もうこれ以上そんなことはしたくない。そんなことをするくらいなら、むしろ一切の関係を断ち切って誰とも話さず、誰ともかかわりをもたぬままでいることを選びたい。」
ゲラサの男も、まさにそうだったのではないでしょうか。「あなたはあなたのままでいい」という言葉かけを受けることなく育ち、体だけが大きくなって行ってしまった男のように思います。
Ⅳ.あなたの名は何というか?
そうした彼を「レギオン」から解放し、本来の自分を取り戻させるために、イエスさまがなさったことに注目したいと思います。
それは、「あなたの名(本質的な「名」)は何ですか?」と問われたことです。この主イエスの問いかけをきっかけに、彼は、我に返る道へと導かれて行きました。
先ほどの春日さんの本の中に、もう1つ、次のような詩も紹介されていました。「私/欲しいものなんて/何もなかったんだ/八月は暑かったので/あ~ 私はどうしてそんなことに気づかなかったの/何かを欲しいなんて/他の誰かが/みんな私に吹き込んだだけよ」
春日さんの解説です。「私は、いままで、『私はこうありたい』という願いをもち、『そのようにあろう』として生きてきた。けれども、私はわけもなく(八月は暑かったということがきっかけで)気づいてしまった。それは『私の』望みではなかったのだ。ほかの『誰か』の望みにすぎなかったのだ。私がそれを望むようにとほかの『誰か』が私に望んだ、その『誰か』の望みでしかなかったのだ。私はそれを『私の』望みと思いこみ、その望みを実現するためにのみ生きてきた。そうして、私は、『自分が』望む『自分の』望みなどもてない存在になってしまっていたのだ。」
聖書は、私が誰なのかをはっきりと教えてくれています。それは「神に愛されている存在」ということ、「あなたは大切な人です」ということです。
私たちの過去がどのようであっても、また人と比べてどうであろうとも、私は、神が愛を込めてつくってくださった「神の作品/マスターピース」である。これが聖書の教える「私」です。
イエスさまは、「名は何というのか。」と質問しました。イザヤ書に「名」、「あなたの名」について書かれています。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。・・・わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛する。」(イザヤ書43章1、4節)
そうです。私の名を呼ばれるお方が神さま、そのお方は造り主であるが故に、私の本質、私が誰であるかをご存じなのです。
神さまは、こうした眼差しをもって、私たちの子どもたち一人ひとりの中に価値や可能性を見ていてくださいます。そして親であり、大人である私をも見ていてくださるのです。
この「あなたは大切な人です」という語りかけを心に受けとめる時、自分の尊さに気づき、自分を大切にし、そして人の尊さも分かる者として、人と接することができるのです。
「子どもが輝く10のメッセージ」の背後にも、このような眼差しをもって見ていてくださる神さまがおられるのです。
誰よりも、神さまこそが、「あなたは大切な人です」と語り続けてくださることを心に留めたいと思います。
お祈りします。