2018年7月15日
松本雅弘牧師
エゼキエル書36章22~32節
マタイによる福音書16章1~12節
Ⅰ.分水嶺としてのマタイ福音書16章
今日お読みしたマタイの16章は、昔から「マタイ福音書の分水嶺」と呼ばれてきました。宣教活動の1つのクライマックスを迎えた主イエスが、この後、一気に十字架への道を進んで行かれる。その境目の出来事が起こるからです。
その1つが「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)というペトロの告白。もう1つが、21節にある、主イエスご自身による受難の予告でした。そのように緊迫した雰囲気の中で起こった出来事がファリサイ派、サドカイ派とのやりとりでした。
Ⅱ.ファリサイ派とサドカイ派の人が求めた「天からのしるし」
ファリサイ派とサドカイ派の人が主イエスのところにやって来ました。理由は、主イエスを試みるためです。
マタイ福音書の中で、この「試す」という単語はこれ以前に1度だけ使われています。それは悪魔が主イエスを誘惑した場面です。
宣教の初めに悪魔が主イエスにしたことを、何と今ユダヤ人の指導者たちが再び行っているのです。「天からのしるしを見せてほしい」と言って主イエスを試みたのです。
以前にもこれと似たような場面がありました。「先生、しるしを見せてください」(12:38)
この時は、律法学者とファリサイ派でしたが、今回はファリサイ派とサドカイ派のペアです。水と油のように、その考え方において対立している者たちが主イエスを試みることで一致団結してやって来たのです。それは、主イエスが共通の敵で邪魔な存在だったからです。
ところで、「天からのしるしを見せてほしいと願った」ことのどこが誘惑だったのでしょうか。
彼らはこう考えたのではないでしょうか。「イエスの奇跡は認めましょう。説教に力があるのも承知した。でも、私たちの生活を邪魔するような奇跡や説教ならば話は別。受け入れるわけにはいかない。」だから言ったのです、「天からのしるしを見せてほしい」と。
「神があなたを遣わしたのは、私たちの願っているような救いをもたらすためでなければならない。そのような意味での天からのしるし、その証拠を見せろ」と求めたのです。
つまり、ここで彼らが求めた「しるし」とは、自分たちの生き方を変えなくても済むような「しるし/保証」でした。「あなたは自分が救い主だと自称している。結構です。でもあなたがメシアかどうかは、この社会の権威である私たちが判断すること。勝手なことをされては困る。この国の責任者、この国のリーダーは私たち、ユダヤの救いのために労して来たのは私たちだ。そのためにこうして人生を捧げてやってきている。だから、あなたの言うところの救いが本物かどうか、私たちが決めるから、その『しるし』を見せて欲しい」。そうイエスに詰め寄ったのです。
Ⅲ.主イエスの存在こそが「しるし」
これに対して主イエスはおっしゃいました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(16:4)と。
この時、主は「ヨナのしるし」と言われました。これは十字架を指し示すものでしょう。ヨナは神の命令に背き大魚に呑み込まれ、その腹の中に3日3晩閉じ込められた預言者です。そのヨナと同様に、「人の子」も「3日3晩、大地の中にいることになる」というのです。
当然これは、「イエス・キリストが十字架で死に、3日間、陰府にくだる。」ということを指し示しているのでしょう。
ただこれは実に妙な「しるし」です。どうせ「しるし」を挙げるならば「ヨナが大魚から3日目に吐き出されたように、人の子も3日目に復活する」と言えばよいのに、主は、敢えてその手前、「十字架で死に、陰府にくだる」という出来事を「しるし」として語られたのです。
ところで彼らが求めた「しるしを見せてくれ」の「見せる」というギリシャ語は、「論証する」という意味の言葉です。主イエスがメシアであるということを論理的に証明して欲しいと彼らは願っているのです。でも主イエスはそうなさいません。
そう言えば、主イエスが十字架にかけられたその時も人々はからかい半分に言いました。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」主イエスはそこでも、「しるし」を求めて叫ぶ人々にその「しるし」を見せませんでした。
十字架から降りてみせることによってではなく、むしろ降りず、そのまま陰府にまで落ちることによって、神の子であることを示されたのです。
ヨナは自分の罪のために閉じ込められましたが何と主イエスは、私たち人の罪のために「大地の中」、すなわち「陰府」にまで落とされました。それが「しるし」なのです。
ここで、結局ファリサイ派、サドカイ派の彼らは自分たちの納得のいくような「しるし」を得られず、主はその彼らを遺されたまま、そこを立ち去るのです。これは1つの裁きかもしれません。
Ⅳ.しつこいほどの恵み
後半には、イエス様と弟子たちのやり取りが出て来ます。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と主は言われました。
パン種とはパンを膨らませるもので、ほんの少量でも全体に大きな影響を及ぼします。ファリサイ派、サドカイ派の教えには不純物が混ざっている。そうしたものがほんの少しでも混ざれば全体に蔓延し、良いものまでもが台無しになる。だから「よく注意しなさい」と主はおっしゃるのです。
ただ弟子たちは勘違いしました。主イエスがパンを持ってこなかったことを咎めたと思ったのです。それに対して主イエスは言われました。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。」(16:9,10)
そうです。「しるし」を要求しなくても、そうした人のところにはすでにちゃんと「しるし」は与えられていました。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。しるしはすでに与えられていたではないか」と主はおっしゃったのです。
牧師の役割は「Naming grace/恵みに名を付けること/恵みに気づかせること」だと教えられたことがあります。確かに、私たちは気づかなくてよいものが気になってしょうがないのです。見ないでいいものが目に入って来る。逆に、恵みとなるとすぐに忘れてしまう。ですから感謝も喜びも心に湧いてこないのです。だからこそ主は何度も何度も恵みのしるしを与え、「まだ、分からないのか。覚えていないのか」と叱責されるのです。
『とりかえっこ』という絵本があります。ひよこが様々な動物と泣き声をとりかえっこするお話です。ひよこが散歩に出かけ、ねずみと出会う。そこでひよこが、「鳴き声をとりかえっこしよう」と言うとネズミが「ピヨピヨ」、ひよこが「チュウチュウ」、鳴き声が入れ替わるのです。そうした鳴き声をとりかえっこしながら散歩をするひよこですが、大きな猫に遭遇し「たべちゃうぞ~」と襲いかかられた時、何とひよこの口から「ワン、ワン」と犬の吠える声が聞こえたのです。実は直前に犬と声のとりかえっこをしていたからです。そして助かるというお話です。
「実に神さまは、私たちととりかえっこしてくださった」と、ある牧師が語っていました。キリストの義と私の罪をとりかえっこしてくださった恵みです。
主イエスはご自分のものであったものを私に与え、ご自分のものでなかったものをご自分の身に引き受けてくださいました。
悪魔のように主イエスを試し、いや殺す人間、何かと言えばすぐ神の支配が分からなくなり、不機嫌になり失望してしまうのが私たち人間です。神の愛はどこに行ったのか、神はどうして、こんなに私を苦しめるのかとつぶやく私、その私と主イエスとが場所を入れ替わってくださった。
マタイ16章は、まさに主イエスのそうした歩みが明確に見え始めてくる場面です。信仰は、そこに神の恵みを見ていくのです。
既に圧倒するほどに与えられている恵み、あのカナンの女のようにしつこいほどに追いかけてくる神の恵みとご支配に気づいていない。そのことが私たちの課題なのです。
創世記3章で、罪を犯した人に主なる神は「あなたはどこにいるのか」と声をかけられました。
『恵みの契約』を書いたマロウ先生は、聖書の歴史はまさに「あなたはどこにいるのか」という神の語りかけの歴史であり、しつこい程に追いかけてくるその招きの御声に気づき、振り返るとき、そこに恵みの神が、救いの神が待っておられる、と言われました。
そうした神の愛のしるし、それはやがてヨナのしるしとして十字架につながっていくものです。「まだ、分からないのか。覚えていないのか」と主イエスはおっしゃいます。それはもうすでに何度も何度も恵みのしるしを与えておられるからです。
あのカナンの女はしつこいほどの信仰をもって、主イエスを追いかけましたが、主イエスご自身も、しつこいほどの恵みをもって、私たちを追いかけてくださるのです。
すでに神の国、神のご支配が始っています。どうか私たちの心の目を、主によって開いていただき、そのしつこいほどの恵みに圧倒されたいと願います。お祈りします。