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主日共同の礼拝説教

キリストに結ばれた者

2018年7月29日
和田一郎副牧師
創世記1章26~31節
コロサイの信徒への手紙2章18~19節

はじめに

コロサイの信徒への手紙を書いたパウロは、今日の聖書箇所18節で「信仰生活において注意すべきこと」と、19節は「教会が信仰生活で大切である」ということを語っています。はじめに18節、当時のコロサイ教会のクリスチャンに向けて「注意しなさい、気を付けなさい」とパウロが勧告した、当時のユダヤ教的な間違った教えを見ていきたいと思います。

1、一体性を失ったユダヤ教

旧約聖書が最後に書かれてからキリストが現れるまでの期間を「中間時代」と呼びます。この期間は神様からの預言の言葉が聞かれなかった「空白の四百年」と呼ばれることもあります。この時代はユダヤ人にとって大混乱の時代でした。アレクサンドロス大王によって、ユダヤを含めた地中海周辺の諸国は征服されて、時代は一変していきます。続いてローマ帝国が地中海周辺国を制覇して、ユダヤはローマ帝国の属州となるのですが、ユダヤの社会は暴力と不安が支配していきます。この時代に、ユダヤ人の信仰は一体性を失っていました。ファリサイ派やサドカイ派といったさまざまな宗派が生れたのはこの混乱の時代でした。その中で勢力を二分して争っていたのが、ファリサイ派とサドカイ派でした。サドカイ派は、祭司やお金持ちの富裕層で構成された宗派で、神殿礼拝を信仰生活の中心として、保守的傾向が強かったのです。そして、彼らは死者の復活を信じない、天使の存在も、霊的な存在も否定し続けた宗派です。目に見えるものがすべてで、政治的なことに関心を寄せていました。
もう一つの、大きな勢力だったファリサイ派は祭司や、職人、商人、農民まで幅広い人たちで構成された宗派です。彼らはモーセ五書と合わせて、ラビと呼ばれる律法学者が、口伝えで教えてきた口伝律法も重要だとしていました。彼らは実生活とは遠い感じのあるモーセの律法より、口伝律法の言い伝えの方が、実生活の役に立つから重要だとしていました。福音書の多くの箇所では、ファリサイ派とサドカイ派の人達は並んで出てきます。しかし、ファリサイ派とサドカイ派の性質はまったく違ったものでした。イエス様やパウロが活躍した時代のユダヤ人の信仰は、統一性を失って、宗派ごとに対立した時代でした。彼らはサマリア人のような周辺の部族を蔑んでいただけではなく、内部でも対立していました。そうした激しい争いは、同じユダヤ民族同士で殺し合うということになりました。巨大な帝国に支配されている一方で、同じユダヤ民族同士でも殺し合い、庶民の生活は厳しいものでした。そうした中で、救い主であるメシアを待ち望む、メシア思想が高まっていきました。そこにイエス様が、お生まれになったのです。
コロサイの手紙2章18節で、パウロは「こういう人々は」と指しています。「こういう人々」というのは、ファリサイ派・サドカイ派、もしくはそれらの影響を受けた人達が、自分たち宗派の教えをコロサイ教会に吹き込んでいる。ユダヤ教的な思想を持ち込んでいる人に注意しなさいとパウロが注意を促しているのです。ファリサイ派のように口伝の伝承を重んじる人たちだったかも知れませんし、サドカイ派のように復活を信じない人達だったら、福音の真理を理解できなかったでしょう。ここには「天使礼拝にふける」とありますが、神様に近づくために、天使の力に頼って、天使そのものを礼拝するということがあったようです。イエスキリストの福音に何かを足したり、引いたりしていた人達がいたのです。時に彼らは、「幻で見た」といって、神秘的で特殊な自分の体験を誇りながら思い上がっていたのです。

2、偽りの謙遜

彼らはそういったことを、「偽りの謙遜」(18節)をもって、コロサイ教会に近づいてきたというのです。「謙遜」という人の在り方は、クリスチャンにとって重要な姿勢だと思いますが、パウロはここで、謙遜に見えても、それが本当の謙遜なのかを見極めなさいと注意しています。
「謙遜」という言葉を聞くと、イエス様が弟子の足を洗われた出来事を思い出します。イエス様は、人に仕える者になるという「謙遜」というものを、身をもって実践して見せたのです。「あなた達は、わたしの弟子になったのだから、キリスト者として、このような態度で、世の中で仕える者となりなさい。」と具体的な姿勢として見せて下さったのです。
聖書的に謙虚であるということは、自尊心を捨てるということではありません。イエス様が弟子に教えたかったことは、自己を卑下することではないのです。
「自分は受け入れられているのだ。自分はここにいていいのだ、愛されているのだ」と思える、「自己肯定感」や「自己受容」があると、人は心を安定させると言われています。自尊心と聞くと「うぬぼれ」ているようで誤解されるかも知れませんが、最近では「自尊感情」と表現するようです。「自尊感情」というのは聖書的な「謙遜」を考える上で重要だと思います。イエス様が教えようとした謙遜とは、自尊感情が前提にあると思います。旧約聖書の人物で「謙遜な人」といったらモーセです。民数記に「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(民12:3)とあります。
モーセは大きな挫折を経験します。エジプトで育ちましたが、同胞のヘブライ人に仲間として認められなかったことと、罪を犯したことで、エジプトから一人逃げ出しました。荒野で羊飼いとなって生活していました。しかし、モーセは子どもの頃、自分の母親から、自分がヘブライ人という神様に約束された部族の一人である、と教えられて育ちました。殺されることになっていた、生まれたばかりのモーセは、母親とお姉さんの知恵と愛情によって生き延びました。エジプトでは奴隷だったヘブライ人ですが、神はそのヘブライ人を自分の民として、エジプトから救い出して、約束の地へと連れて行く。あなたはその約束された民の一員として生まれたのだと、親から教わって育ちました。モーセは挫折感を持ちながら、荒野で40年ものあいだくじけなかった。イスラエルの民を導く偉大なリーダーとして、立ち直ることができたのは、子どもの頃に受けた愛情と「神に約束された民」としての「自尊感情」です。そのモーセが「この地上のだれにもまさって謙遜であった」。と言われた。そこに信仰者の、あるべき「謙遜」を見ることができるのではないでしょうか。
謙遜さの前提には、自分を否定するのではなく、自分が何者なのかを知って受け入れることがあります。神様に造られた自分が、この土地に住まわされたのは、あなたが必要な人で、有用な人で、大切な愛された者なのだと受け入れつつ、その神様に従っていくという生き方です。

3、頭(かしら)であるキリストの体

パウロは、そのように注意したうえで、信仰者が頭(かしら)であるキリストの教会に繋がる、ことの重要性を19節で教えます。
パウロは、いくつかの手紙の中で、教会を人の体にたとえています。そこで一番強調したい点は、教会には体のように、一致と多様性があるということです。私たち一人一人に多様な特徴が与えられています。この個性は、からだの腕や足、目や耳のように、多様な役割があります。しかし、多様性というのは、どこかで一致した方向に行くことで、はじめて調和がとれて、力となるはずです。一致がなければただの「烏合の衆」ですし、それどころか個性の違うものどうしが争うことになります。中間時代のユダヤ教の人々は、まさに、お互いに権力争いをして、いがみ合っていました。多様性はあっても、頭(かしら)がいなかったのです。わたしたちの教会の頭(かしら)は、イエス・キリストです。この頭に繋がっている限り、多様な個性が同じ方向に向いていくことができるはずです。パウロは、節(ふし)と節、筋(すじ)と筋といった、からだの器官を繋ぐ役割に注目しています。それは、人と人、賜物と賜物を繋ぎ合わせる、そういった賜物をもつ人が教会には必要だからです。教会の働きの中には、節(ふし)や、筋(すじ)になってくださった人が必ずいるはずです。それは役職としてではなく、すべての方がかかわれることです。たとえば、知らない人に、こちらから声をかけるといった事から、人をお誘いするといった身近なことが、教会を繋ぎ合わせて、建てあげていくことになるでしょう。

4、「神に育てられて、成長してゆく」

教会学校の奉仕なども、子ども達を教会に繋いでいく働きです。神様は種を撒いてくださって、その種に私たちは水をやりますが、育てて成長させてくださるのは神様です。パウロがここで、私たちに求めていることは、「繋がっていく」ということです。教会に集う兄弟姉妹が、互いに節(ふし)となり、筋(すじ)となって繋がっていくことで、一人一人が育てられ教会全体を成長させてくださいます。
イエス様も、「わたしにつながっていなさい…わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」(ヨハネ福音書 15:4-5節)と、おっしゃいました。この教えを守っていきましょう。 お祈りをします。