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主日共同の礼拝説教

「岩」の上にたてられた教会

2018年8月5日
松本雅弘牧師
列王記上8章41~45節
マタイによる福音書16章13~20節

Ⅰ.マタイ福音書の分水嶺

今日の聖書個所は、「マタイ福音書の分水嶺」と呼ばれます。
主イエスは、神の国の福音を語り、病を癒し、パンと魚の奇跡をもって多くの人々に仕えていかれました。当然ですが、イエスさまの評判は高まり、噂を聞いて集まる人の数も日ごとに増えていきました。「ガリラヤの春」と呼ばれる時期です。しかしこの後、主イエスの思いが十字架へと一気に集中していきます。
主イエスの一行は、この時ガリラヤよりもさらに北に40キロ行ったフィリポ・カイサリアを訪れていました。この地で、とても重要な意味をもつ3つの出来事が起こっています。
1つはペトロの信仰告白。そして2つ目に大事な出来事は、そうしたペトロの信仰告白を受けとめた主イエスが、その告白の上に「わたしの教会を建てる」と言われ、いわば教会設立の宣言をされたということです。
そして最後、3つ目は次回の聖書箇所に記される、主イエスによる十字架と復活の予告です。

Ⅱ.ナザレのイエスは何者なのか?

ここで、主イエスは弟子たちに向かって、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。
それに対して弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の1人だ』と言う人もいます」(マタイ16:14、15)と答えました。ここに出て来る証言はどれも最高の評価でした。
私は高校2年生の時、初めて教会の礼拝に出席しました。そしてすぐ教会学校にも参加し始めました。その時に先生が話してくださったことを今も忘れずに覚えています。
世の中には、「偉人」と呼ばれる人はたくさんいる。そうした人たちは、「ここに道がある、これが真理だ」と、人としての道を指し示してくれる。でも「ナザレのイエス」だけは違う。イエスは、教師のように道や真理や命を指し示すのではなく、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と語って、自分が道そのもの、真理そのもの、命そのものと言い切る。教会学校の先生はこのように教えてくれました。
このイエスの言葉、これはよく考えてみればとてつもない発言です。普通の人は決してこんなことは言えません。でも教会に導かれた者は、イエスのこの言葉が本当かどうか、人生のどこかの時点で一度は向き合うように招かれていると思うのです。言葉を換えて言えば、イエスは単なる大嘘つきか、あるいはその発言のままのお方かどうか…。もし大嘘つきだけの男であるならば、暑い中、礼拝に集うこと自体が無意味でしょう。気休めにしか過ぎないのですから。しかし、そうでないならば、主イエスのこの問いかけは、それを聞く1人ひとりに、ある種の態度決定を迫る発言となるのです。自分のことを指さし、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、と言い切るわけですから。それも真顔でそうおっしゃるのです。
「人は聖書を読むようにしか生きることは出来ないし、生きるようにしか聖書を読むことが出来ない」と私の恩師は教えてくださいました。私たちは、この主イエスの問いかけ、その聖書の言葉の前に独り立たされる経験をするのです。そして態度決定を迫られる。
ここで主イエスが求めているのは周囲の者がどう言っているかではありません。自分の家がクリスチャンホーム、親がクリスチャンである、あるいはミッションスクールを卒業した、そんなことを聞いているのではないのです。勿論、そうした一つひとつのことは恵みですが…。
主イエスが聞きたいことは、「あなたはわたしを何者だと言うのか」ということです。それをあなたの口から聞きたい。あなたの考えを聞き、その考えに基づいてどう生きていくのか、どのように生きて行きたいのか、それを聞きたいのです。

Ⅲ.信仰告白によって神との生きた関係が始まる

旧約聖書を紐解きますと、出エジプトの出来事で解放された人々は、シナイ山において神と契約を結びます。この時から彼らは正式に神の民、主の花嫁イスラエルとなります。その結婚関係が守られ祝福されるようにと与えられたのが十戒を中心とする律法です。
結婚という契約関係に入ったのは律法を守った結果ではなく、あくまでも律法は「神の民/主の花嫁はいかにあるべきか」を示すものです。特にカンバーランド長老教会では、この関係を「恵み」と呼びます。この恵みの契約関係と対照的なのが一般的な契約関係です。
例えば就職で試用期間という時期を設ける場合があります。まずは試験的に採用してみる。そしてよく出来たら本採用となる。神の民の場合はそうではない。最初から本採用なのです。
その証拠に、律法は神の民として「本採用」された後に与えられています。
この順序が大事です。実は最初から本採用の神の民が「神の民たる者、主なる神の花嫁たる者はいかにあるべきか」を示す律法を早々と破るという大事件が出エジプト記32章に出て来ます。
アロンが民から集めた金で雄牛の像を造った。彼らは、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出エジプト32:4)と言い、アロンはその前に祭壇を築き、祭りを宣言し拝ませるのです。ホセアの言葉を使えば姦淫の罪です。結婚なら破談されて当然です。しかし破談にならなくて済んだのです。実はこの事件こそ、その後のイスラエルの歩みを象徴するような出来事でもありました。
神の民、花嫁イスラエルは繰り返し律法を破りますが、それにもかかわらず主なる神は彼らを赦します。神は、結婚関係、自らが結んだ恵みの契約に誠実を尽くされたのです。ただそのために、どれだけ犠牲が伴ったか。犠牲の贖いの血が流され、執り成しの祈りや労が捧げられたか。そうした一つひとつの労苦は、新約に至り、最終的には十字架の贖いにつながっていきました。
話が大分発展してしまいましたが、この時の主イエスの問いかけ、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ16:15)は、まさに「恵みの契約」への招きの言葉なのです。
それに対して私たちを代表したペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。まさに信仰告白をしたのです。私たちで言うならば、そのように告白し、洗礼へと導かれ、神との生きた関係が始まるのです。

Ⅳ.「岩」の上に建てられた教会

このペトロの告白を、主は本当に喜ばれ「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。」とおっしゃいました。そして、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われたのです。
さらに続けて「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られました。
カトリック教会では、この鍵をもっているのがペトロ直系のローマ教皇であると理解しますが、私たちプロテスタント教会は、むしろこのペトロの信仰告白に重きがあると考えます。
今日はこの後、私たちは聖餐に与ります。その前に告白する「使徒信条」、この信仰告白こそが、時代を貫いて教会に継承されてきた教会の礎です。主は、その上に私たち教会を立ててくださるのです。
そしてもう1つ、この告白をした弟子ペトロに心を留めておきたいと思います。
「ペトロ」とは「岩」という意味のギリシャ語です。この告白をした人間ペトロに軸足を置いて考える時に、そのペトロは決して「岩」のように強いものではありませんでした。
次回の聖書箇所で、受難の予告をなさった主イエスを、このペトロが脇へお連れして、いさめ始めるのです(21節)。実に的外れな行動を取ってしまいました。それだけではありません。「あなたはメシア、生ける神の子です」と、告白した同じ口でもって、最後の最後には、主イエスを3度も「知らない」と裏切ってしまうペトロです。
つまり堅固な「岩」であるのはペトロ本人ではなく、むしろ「イエスはキリストであり、生ける神の子である」という告白そのもの、そして17節で主イエスが言われるように、そうした告白へと私たち一人ひとりを導いてくださる「天の父」なる神さま、そのお方なのです。
主イエスはその「岩」の上に「わたしの教会を建てる」とおっしゃるのです。そして、「天の国の鍵を授ける」とまで言われます。
そのことに、畏れと不思議さを覚えさせられるのです。今日は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、という主イエスの御言葉を何度か読ませていただきました。
主イエスが嘘つきではなく、本当に語られたようなお方であるならば、これからも真面目に宣教の業に励まなければならないと思わされるのです。愛する家族の者たちと一緒に、これから後も、神の国の恵みの中に歩んで行きたいと心から願うからです。お祈りします。