松本雅弘牧師
詩編23編1~6節
ルカによる福音書10章38~42節
Ⅰ.私たちの日常
今、S・フィリップスの『修養する生活』を読み始めました。その中に「私たちは、常に何かによって修養されています」と書かれていました。テレビやスマホ、様々なものによって、意識を超えた形で影響を受け、心が形成されていきます。今日、登場するマルタという女性も、何かに「修養され」つき動かされるように、ある種のドタバタを経験した女性です。
Ⅱ.マルタとマリア
ある日、マルタとマリア姉妹はイエスさまと弟子たちを招くことにしたのです。姉妹は協力して夕食の用意を始めます。その途中、マルタが忙しさのあまり余裕がなくなりイライラし始めます。
一方、妹マリアは、主イエスの説教が始まると、準備の手を休め、そのお話に聞き入るのです。マルタは、夕食作りの手伝いもしないでいる妹が許せなくなり、そうさせている主イエスにも腹が立ち、「主よ、わたしの姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と訴えました。
このマルタは2千年前の女性です。でも私たちと変わらない課題を抱えていました。その課題とは「忙しさ」です。忙しさの中で、最も大切なことを見失ってしまうという経験でした。
ところで私たちの日常生活の中では、今何をするかを選ぶ時、その選びとは、白黒はっきりしているようなものから物事を選択する、というような選び方ではありません。たくさんある良いものの中から「最も良いもの/今、一番大事なもの」を選ぶという選び方となり、それは結構たいへんなことです。特に、この時のマルタのように、余裕がなくなり始めますと、最も大切な事柄ではなく、むしろ別の何かに夢中になってしまう傾向があるように思います。
ある人が、「愛の綴りはT-I-M-Eと書くのだ」と語っていた言葉を思い出しました。「T-I-M-E」、そうです「時間」のことです。
聖書で最も大切なものと言われる「愛」は「T-I-M-Eと綴る」。これは裏を返せば、「愛」は決して急いで出来るものではない、時間を要するのだということでしょう。
確かに急ぎながら人を愛することなど出来ません。そして、考えたり、食べたり、笑ったり、礼拝を捧げることも急いで「する」ことではないのです。急いでいたら、心を込めることが出来ないわけですから・・・。子育てもそうです。急いではできません。
主イエスは、私たちの生活を支える土台が本当に大切であるとお話をされました。土台とは普段は土の下にあり、私たちの目からは隠されたところにあります。ただ、いざと言う時に、その価値が現れるものです。
私たちが生きて行く上で、普段は目に見えないが、いざと言う時にその価値が問われるものって何でしょうか。それは「関係」でしょう。夫と妻の関係、親子の関係、友達関係、クリスチャンでしたら神さまとの関係です。それらは普段は目に見えません。だから、何事もない時は特別問題になりません。ほったらかしにしてしまう場合もあるのではないでしょうか。
でも実際はどうかと言えば、「関係」、それは土台ですから、私たち自身はそうした「関係」によって支えら守られて過ごしているのです。時に、土台がしっかりしていないのに見える部分だけが大きくなると、必ずバランスを崩して倒れてしまいます。場合によって、その倒れ方はひどいのです。仕事においても、何年か経つと少しずつ色々なことが分かってきます。仕事が楽しくなる。当然、責任が増え忙しくなります。
主イエスは、私たちのそうした外側の営みを家にたとえておられます。その家を支えているのが土台、「関係」でしょう。
夫婦の関係を例に取って考えてみましょう。「夫」という言葉も「妻」と言う言葉も「関係を表わす言葉」です。夫は妻がいるから夫ですし、妻は夫がいるから妻です。
とすれば、妻が自分を妻であると意識することができるのは、夫の存在があるからで、その夫が疎遠になってしまったなら、妻はもう自分を妻として意識できなくなってしまいます。
そうなると妻はふと「私は何なのかしら」と考え、そして周りを見回すとそこに子どもが居る。「ああ、この子の母親なんだわ」と思う。
このようにして「母になった妻」は、子どもに全力投球し始めます。子どものためと言いながら、自分が良い母親であるという評価を得たいがための全力投球も起こります。これは子どもにとっては迷惑なことかも知れません。
夫はどうでしょう。会社で仕事の責任が大きくなると同時に、喜びや充実感を感じ始めます。仕事を第一にして物事が進み、ここで、夫が完全に会社員になってしまう。その結果として妻は、一層母になっていく。
目には見えません。でも明らかに関係に変化が起こってくるのです。見える部分では前と変わらず同じ家に住み同じように暮らします。でも中身は夫婦が一緒に生きているのではなくて、会社員と母が同居している状態です。
そして互いが「空気のような存在、空気のような関係」になる。この「関係」は土台に当たる部分ですから目に見えません。でも生活全体を支えるはずの夫婦という土台が、「空気のよう」ならば、何か起こった時に、簡単に崩れてしまうでしょう。2人の関係を育むために時間を投資することを怠った結果です。
Ⅲ.イエスさまの中にある〈ゆとり〉
ポール・トゥルニエが語っていました。「現代人には沈黙ということが欠けているのではないでしょうか。・・・毎日の生活の中が卵の中のように一杯につまっていたら、何の入る余地もないし、神ですらそこに何も入れることができないでしょう。ですから、生活の中にすき間をつくることが大切になるのです。」
「生活の中にすき間をつくること」、「生活の中のゆとり」が必要だとトゥルニエは語るのです。トゥルニエが勧めるような姿に近づきたいという祈りが私自身のなかにあります。
この時のマルタも、ゆとりを失った時イライラが始まりました。最も大切な事を見失って一杯一杯になってしまったのです。
では「ゆとりある生活」とは何でしょう。聖書によれば、主イエスこそが、この生活を実践していたことが分かります。それは分かりやすく言えば、「ひとりの時間を持つ/神さまの前に自分を振り返る時を持つ」ということです。
福音書には、弟子たちから離れ、よく独りになる時間をおとりになっていた主イエスの姿を発見します。イエスさまは意識して生活の中に「すき間」を作っておられたのです。やるべき多くの「良きこと」がある中で、イエスさまは、忙しい自分の日常を吟味するために、「すき間」を取っておられました。
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。そして、たくさんある「やるべき大切な事柄」の中から、「そのためにわたしは出て来たのである」(1:38)と言って、今、特に時間をかけて取り組むべき事柄、イエスさまにとって、「そのため」にという事柄を発見しながら生活することができました。
このようにしながら、ご自分の生活の土台となる神さまとの関係、弟子たちとの関係、また人々との関係を振り返る時をもっておられたのです。
実は、私たちに与えられている、こうした礼拝の時間も神さまから与えられた「すき間/ゆとり」のようなものです。そうした「ゆとり」の中で、日常の自分を振り返り、生き方を修正し、土台を点検し、ふさわしい土台を形作るようにと導かれていくのだと思うのです。
Ⅳ.イエスさまからのもてなしを受ける
今、高座教会で取り組んでいる3年コース「エクササイズ」の1年目の課題に、「生活の中に余白をもつことと生活のペースを落とす」というエクササイズがありました。まさに、「生活の中のゆとり/すき間」の問題と取り組むことです。
私たちは、日々、やるべき多くのことに囲まれています。それに加えて、やりたいことや、見たいテレビ、読みたい本、何しろたくさんあります。
そうした多忙な生活の中に「ゆとり」を確保すること、そのことが、実は、私たち自身の生活にリズムをもたらし余裕を与え、たくさんある大切な事柄の中から、いま、最も大切な事柄を選びとることができるようにと、私たちを導く秘訣なのです。
イエスさまご自身がその生活の中で、そして、また、マルタとマリアの物語をとおして、聖書は私たちに語っているのではないでしょうか。
実は、こうした礼拝の時も、生活の中に「ゆとり」を確保する大切な時間でもあり、私たちの人生を支える様々な関係を振り返り、また養う大切な時間でもあるのです。
主イエスは「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と教えられました。
礼拝は、神さまがこの「心の糧」をもって私たちをもてなしてくださる大切な機会です。日曜日は、動いている生活を一端ストップして、生活と生活の間に「礼拝」という「すき間の時間」を設け、自分が昇って行こうとする梯子が、正しい壁に掛けられているかどうか、間違った壁に立てかけた梯子を一生懸命昇ろうとしてはいないか、そうした私たち自身の生き方の方向性も含めて、思い巡らす大切な時とさせていただきたいと思います。お祈りいたします。