カテゴリー
主日共同の礼拝説教

主イエスに従う

2018年8月19日
松本雅弘牧師
イザヤ書65章1~9節
マタイによる福音書16章21~28節

Ⅰ.メシアであることの意味

フィリポ・カイサリアの地で、主イエスは弟子たちに向かって「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。するとペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をしたのです。
それを受けて、主は教会設立を宣言し、ご自身がメシアであることを明らかにされ、しかも「だれにも話さないように」とお命じになったのです。
とても緊迫した場面でした。何百年にもわたってイスラエルの民が待ち望んでいた真のメシアが、今、自分たちの目の前に立っておられる。このお方がメシアであるとは一体どういうことなのか、その秘密を弟子たちだけに明らかにされたのです。

Ⅱ.「このときから」

福音書を書いたマタイは「このときから」(16:21)と語ります。
マタイは、この言葉を主イエスの働きの特別な区切りの場面で使っています。4章17節では、「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記されています。
16章の後半から、主の御働きが新たな局面を迎えます。それは公生涯の始まりと同じくらい大事なことなのだと、マタイは私たちに語っているのです。
ここで、イエスからその話を聞かされた弟子たちは、そう言われても意味が分かりません。それ以上に、メシアが殺されるなんてあり得ないと思ったようです。ですから、ペトロは主イエスを脇へお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、いさめ始めたというのです。
「とんでもないことです」とは、直訳しますと、「あなたの憐れみがありますように」という意味です。ペトロには主イエスの言葉の意味が全く分かっていなかったのでしょう。〈主御自身が混乱しておられる。あれだけ集まった群衆も離れて行っている。もしかして宣教の行く末を悲観され、こうしたことを口走ってしまったのかもしれない〉と、ペトロは、このようなこととして考えたのかもしれません。そこで、主イエスを励ますつもりだったのでしょう。しかしあくまでも、それはペトロ個人の判断に過ぎなかったわけです。
学生の時、私はキリスト者学生会の活動に参加していました。私たち学生の信仰の成長のために、一生懸命に仕えてくださった主事たちから色々なことを教えていただきました。
その1つに「落ち込んでいる仲間を安易に励ますな」ということがありました。何故なら「神の御心に適った悲しみ」(コリントⅡ7:10)というものがあるからです。それを安易に取り去るなら、神の特別な取り扱いの邪魔となるというのです。私たちは善意で色々なことをするものです。でも結果として、神のご計画に水を差すようなことも起こるということです。
この時のペトロがそうでした。ですから主は「サタン、引き下がれ」と、ドキッとするほどに厳しい言葉をおかけになったのです。
ペトロはこの時、主に従い、そのお方の後ろから従っていくのではなく、そのお方を飛び越えてしまっていました。
主イエスが、「苦しみを受けて殺され」る、とおっしゃった途端、その言葉に躓き、その後に続く「復活の予告」、それも「3日目に復活することになっている」という、極めて具体的で、なおかつ大事な言葉を聞き逃してしまったのです。

Ⅲ.主イエスに従う―自分の命を救う道

私はこの時期になると33年前の日航機の墜落事故を思い出します。
評論家の小浜逸郎さんが事故に遭遇した方々に触れて語っていました。「…日航機事故がありました。有能なビジネスマンがたくさん乗っていたわけですけれども、死がほとんど確実になった15分か20分の間に、彼らが手帳に一所懸命、何を記したか、要するに、僕の人生はいい人生だった。妻と子どもにありがとうというような文句を書いた人が圧倒的に多かった。普段、家庭のことなんかあまり省みる余裕のない、おそらく猛烈な会社人間だった方たちだろうと思いますが、その人たちの中に自分の営業成績がこれぐらいだと書く人なんて一人もいなかった。僕はすごくああいうところに何かを発見できたような思いがしました。」と。
私はこの文章を読み〈本当にそうだよな〉と深く頷く経験をしました。
そしてもう1つ考えさせられたことありました。それは掛け替えのない人々の存在が、日常の生活において、別のものにとって替わられているという現実がいかに多いかということです。
突然、病の宣告を受けたり、大きな躓きを経験したり、また、大事故に遭遇するなど、自分のいのちに直面する時に、これまで、大事だと思っていた事柄が一瞬の内に色あせ、人生の終わりを意識し、一番大切なことに気づかされるのです。

主イエスが、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(16:26)と言われるのは、そういうことなのです。
ここで主がお使いになった「命」と訳されているギリシャ語は、生物学的意味での生命を指す言葉ではありません。魂とか心と訳すことの出来る言葉で、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われた、その「神の言葉」によって養われる命のことです。
この箇所の少し前、主イエスは弟子たちに「わたしを何者だというのか」(15節)と問いかけました。自分の考え、その考えに基づいてどう生きていくのか、どう生きて行きたいのかを、主は問われたのです。
そして、今日の箇所に至って「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」とおっしゃるのです。
主イエスはここで、敢えて「損得」の「得」という言葉、私たちクリスチャンが嫌う「御利益宗教」の「御利益」という言葉を使って問うておられるのです。
主がここで言われる御利益とは何でしょうか。それは自分の命を手に入れるということです。ほんとうの自分として生きる、ほんとうの自分を見つけて生きる命、という意味です。
「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われるほどに価値をもつ自分、そういう自分を、あなたは見つけていますか、という問いかけでもあるのです。
さらに主は続けて言われます。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と。その命と取り替えのきくものなどないと主は言われるのです。それほどに大きな値打ちをもっているもの、それがあなたである。その値打ちに、あなたは気づいているか。そのような問いこそが、この時の主イエスの問いかけであり、主イエスの十字架の意味でもあるのです。
私たちはこの主の言葉の前に今一度、自らの命の重さと向き合うように導かれるのではないでしょうか。そして、この命の重さを贖うために、主がなさったことを今朝もう一度聞き取り、感謝したいと思います。そうした上で、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ10:23)と招かれる主に従いたいと願います。

Ⅳ.主イエスに従う

洗礼入会準備会の時、「主イエスは、あなたの心の扉を叩いておられる」とお話しします。
心の扉には、外側に取手が付いていません。強引に押し開けて中に入ろうとはなさらない。主イエスは、あくまでも私たちの主体性を尊重なさるのです。
主の、その声に私たちが気づき、心の扉を開けた時に、イエスさまは私の心に入って来てくださるのです。それが主イエスを受け入れること、主を信じることの始まりです。ここからクリスチャン生活が始まります。
戸を開けて、中に入っていただいたイエスさま、玄関にお招きした主イエスさまを、全てのお部屋、私の生活の全ての領域に、主として王としてお迎えする、すなわち明け渡すことが、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との招きに応えることなのです。
イエスさまは、私たちそれぞれが負うべき十字架があることをご存知でした。誰もが重荷を背負っているものです。それは「自分の十字架」ですから責任をもって向き合わなければなりません。
ただ同時に聖書は、互いに重荷を負い合い、共に信仰を歩む友がいると語ります。いやそればかりではありません。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われ、「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる主イエスさまがおられるのです。私の十字架、私の重荷を自らの重荷として引き受け、共に担って下さるお方、それが私たちの主イエス・キリストなのです。
主に従い、明け渡して生きる時、私たちが差し出した分だけ、その人生は祝福され、新しい命を得ることができるのです。
「主に従うことは なんとうれしいこと」、「主に従うことは なんと心づよい」(讃美歌507)と賛美した信仰の先輩と共に、その恵みを味わって歩んで行きたいと願います。
お祈りします。