2018年8月26日
和田一郎副牧師
詩編33編12~22節
コロサイの信徒への手紙3章1~4節
1.コロサイの人びとが持っていた「希望」
パウロがこの手紙を書いたコロサイという町は、現在のトルコにあった小さな町です。
パウロはこの手紙を、そこの地域の教会に向けて書きました。コロサイの教会の人たちは、概ね正しい教えを忠実に守って信仰生活をしていたようです。そのことをパウロはことのほか喜んでいたことが、この手紙の1章4-5節に現わされています。
(私たちは感謝している…それは…)「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくもの。」コロサイ1章4-5節
つまり、「あなたがたが…持っている「信仰」と…「愛」…それは…「希望」に基づくもの」だということです。
「希望」が信仰と愛の基だとは意外だと思いました。どちらかというと「信仰」があって「愛」があるから「希望」が生れるとも思えます。しかし、パウロがここで言っていることは、信仰と愛は希望に基づくということです。
パウロは手紙のはじめに、コロサイの人達は「希望」を持っていると言いました。その彼らのもっている希望には4つあることが、今日の聖書箇所から見ることができると思います。
3章の1節から4節には、キリストと共に「復活」させられた希望について、「キリストが、神の右の座にある」という希望。「死」の希望、それから「再臨」の希望についてです。私たちが信仰を持つことができる動機として、4つの希望があることをパウロは示しています。これらの希望について見ていきたいと思います。
2.「復活の希望」
コロサイ3章1節でパウロは「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」と、わたしたち信仰者に、「あなたは復活させられたのですから」と、問いかけます。私たちは復活させられました。洗礼を受けた者は、キリストを復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。キリストを死者の中から復活させたのは、父なる神の力です。命を支配されている唯一の神がなされた大いなる業です。その神の力を信じることによって、洗礼を受けた時に、この私たちも、古い自分は死んで新しい命が復活させられたのです。イエス様を復活させた、同じ力が私たちの中にも生きているのです。古い私たちは死にましたが、新しい私たちが復活させられたのです。
パウロは他の箇所でも書いています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)。
私たちは復活して、キリストが内住してくださっている、新しい人になったのです。
私たちは新しいアイデンティティーを持ちます。つまり、キリストが内住してくださり、喜んでくださっている自分です。それは自分の善い行いによるのではありません。
神の力によってであり、イエス様を復活されたのと同じ力なのです。私たちは毎日この力をもって、死んだけれどもまた復活した者として生活していきます。イエス様の復活は私の復活でもある。これが私たちの「希望」です。
3.神の右の御座 「上にあるものを求めなさい」
1節の後半に、「上にあるものを求めなさい」とあります。「上にあるもの」とは、物理的に空や宇宙の方向を指しているのではないのです。「天」のことを指しており、「天」とは神様のいる所を意味しており、主の祈りの中で「天におられるわたしたちの父よ」と祈る、その「天」のことです。「そこでは、キリストが、神の右の座に着いておられます。」と1節にあります。この場合の「右」とは、文字通り神様の「右側」ということではないのです。神様は、霊的で普遍的な存在ですから、右も左もないわけです。「右に座しておられる」とは、王様の代わりに全権を委任されて采配をふるう代理者となられたということです。天に昇るだけでしたら、旧約聖書のエリヤも天に昇りました。しかし、神の右に就かれたのはイエス様だけです。そして、私たちを愛してくださるイエス・キリストが、すべての最高の統治者として、王位に就いておられるのです。
私たちの心と思いとを「上にあるもの」に向けるとは、イエス様が預言を成就されて、死と復活の御業を完成され、さらに天の王座にいて、今の私たちの人生に関わって下さっていることに、心を向けるということです。過去の出来事ではなく、今も関わってくださっているということに「希望」があります。
4.死という希望
「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3章3)とあります。死に関しては、20節でも「あなたがたは、キリストと共に死んでいる」と言っています。私たちは、イエス様の十字架の死が、自分の罪を赦すためであったことを「信じる」時に、イエス様の十字架に自分も加わります。つまり、洗礼においてキリストと一緒に、十字架の上につけられ、「罪ある古い自分に死ぬ」ことができるのです。
さらに、やがてこの世の肉体的な死を迎えるならば、「キリストと共に死ぬ」ことを完遂することになるのです。神様は、洗礼においても、人生の死においても、その死を通して、私たちをご自分のもとに呼び寄せられるので、パウロは「この世を去って、キリストと共にいたい」(フィリピ1:23)と、「死」を熱望したほどです。パウロのその思いはまさに、死を通して「希望」があるということです。死んで終わりではないのです。死んで新しい命へと変えさせられます。古い自分に死んで、キリストの復活と共に、新しい命を生きる「希望」があります。
5.「キリストが現れる時」
そして、最後に再臨の希望が語られます。「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3章4)
先に述べた「死」と「復活」と「神の右に座す」ことは、すでに起こっている事実ですが、この「再臨」だけは、まだ起きていません。イエス様の再臨は究極的な回復の約束です。イエスが再臨されるとき、すべての悪は正され、すべての苦悩は終わり、私たちの喜びは完全なものにされるという希望があります。
今日、お話しをしている、聖書に記されているイエスから与えられた4つの希望は、私たちの信仰生活の中心をなすものです。洗礼と共に、罪にまみれた古い自分は、キリストと共に死んで葬られ、今も日々罪ある自分に死んでくれることです。そしてキリストと共に日々、新しく復活させられ、新しい命に生きられます。そのキリストは、神の右の座にあって見守ってくださっている、そして、いつか再臨の時にすべての苦しみから解放されるという希望があることです。
パウロが、信仰者すべてに投げかけているこのメッセージは、この希望が、しっかりと心の中に刻み込まれているから「信仰」と「愛」という実を結ぶのだというのです。この認識は、他のクリスチャンとの連帯感も強めてくれます。先週、私はジュニアチャーチのサマーキャンプで、群馬県の赤城山に行ってきました。キャンプ場を運営している方々は地元の教会の信徒さんや宣教師の先生たちご家族でした。はじめて会っても、同じ信仰をもつ兄弟姉妹が迎えてくださって、温かいものを感じました。クリスチャンという繋がりは、どこに行っても、キリストとともに死んで復活した者。新しい命を生きている兄弟姉妹と一緒にいるとい思いにさせてくれます。
教会では「キリストは死なれた。キリストは復活された。キリストは神の右の座におられ、キリストは再び来られる。」と説教します。パウロは、この4つのことを希望として、コロサイ教会の人々が持っていることを、喜びました。この4つの希望を持っているがゆえに、信仰を持ち続け、愛が現わされているのだと称賛していました。キリストにある「希望」は、クリスチャンの命を満たして生活においても、仕事においても意義と目的を与えてくださいます。キリストこそ私たちの喜びであり希望であり命です。
お祈りをいたします。