2018年9月2日
松本雅弘牧師
申命記34章1~12節
マタイによる福音書17章1~13節
Ⅰ.「6日の後」に起こった主イエスの変貌
フィリポ・カイサリアの地で、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスは弟子たちに向かって尋ねました。ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白をすると、それを受けた主は、「その岩、その告白の上に、わたしは教会を建てる」と宣言され、ご自身がメシアであり、十字架にかかり、復活することをお語りになったのです。(マタイ16:15~18)
それだけではありません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)と言われました。何故なら、そこにこそ真実の命に生きる道があるからだ、というのです。
こうした一連のやり取りがあった、その「6日の後」に起こった出来事、それが「イエスの変貌」でした。ある人の言葉を使えば、主イエスがご自身の正体をあらわにされたのです。それがイエスの変貌の出来事でした。
Ⅱ.「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」
主イエスの変貌を目撃したペトロは興奮しました。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」(17:4)と喜びに溢れて叫びました。すると、それに応えるようにして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の声が聞こえたのです。
私はクリスチャンになって本当に良かったと思うことの1つが、ここにある「これに聞くがよい」という言葉です。「これに聞いていれば、間違いない」という神さまのお墨付きの言葉です。
「エクササイズ」のテキストの中にこんなことが語られています。
私たち人間は、物語によって生きている被造物だ。中でも、特に家庭で直接伝えられる家族の物語は強烈で、“私は誰”で、“何故ここにいるのか”、“私は価値ある存在なのか”といった、生きる上での重要な問いに対する答えを、人は人生の早い時期に家庭で語られる物語を通して獲得されていく、と。
ただここに大きな問題があるのです。このように、物語によって育てられる私たち人間は、自分の内側にある物語が受け入れられると、その正しさとか有用性にかかわりなく、それがその人の行動を決定づけていく、というのです。
物語られたものが、ひとたび心に根付くと、多くの場合、死ぬまでその人の内に留まります。そして、その物語がその人の人生を動かし続けるのです。
これまでの物語では通用しない人生のステージを迎え、行き詰まりを経験する時には、誰もが新しい物語を求めることでしょう。小説を読んだり、映画やドラマを見たり、音楽を聴いたりするのは、それを楽しむ一方で、無意識のうちに新しい物語を捜そうとする営みなのかもしれません。
ですから自分を動かす物語に気づいたら、スイッチを切り、イエスの物語に入れ替えて再びスイッチを押すのです。クリスチャンは幸いだ、何故なら入れ替えるべき物語が与えられているから、とある先生は言いました。
この時弟子たちは、雲の中からの声を聞きました。「これに聞くがよい」と。主イエスの言葉を聞け。信頼し切って、その言葉の通りに生きるがよい。誰の言葉も信じることができないとしても、あなたは、この子の言葉を聞いて生きていくことが出来るのだ、という御声でした。
あなたを造られた御子、主イエスが、あなたを生かす福音の物語を語ってくださる。だから、あなたは自分の命を見出し、生きていて本当に良かった、と言うことが出来る。ここで父なる神さまは、そう言ってくださっているのです。
これはとてつもなく大切なメッセージです。誰も主イエス以上に神さまのこと、そのお方のご性質について、また私たち人間に与えられている人生の意義について知ることなどできません。ですから、全ての「鍵」は主イエスの物語られたことを心に受け入れること、信じることにかかっているのではないでしょうか。
ここでペトロたちが経験した、主イエスの変貌に遭遇し、主イエスの正体を目撃した経験とは、まさに今、私たちが御言葉により主イエスを知る経験、掛け替えのない主イエスを見出す経験と、全く同じなのだと言ってよいでしょう。
Ⅲ.6日の日をおいて、7日目に
私はこの夏、朝のディボーションで、詩編と一緒に出エジプト記を読み進めてきました。
24章16節に次のような御言葉がありました。「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。」
主なる神からその御声を聞くために、モーセは6日間待たなければならなかった、と語っているのです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という有名な御言葉があります。御言葉を受けとめる、また神さまの御業を神の語りかけとして受けとめる上で、この時モーセは、6日間待たなければならなかったのです。
主の十字架の3日後、弟子たちが集まっているところに主が来られました。ところがトマスはそこにいませんでした。「わたしたちは主を見た」と言って喜んでいる仲間たちの輪に入ることが出来ません。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ21:25)、と意固地になるほかありませんでした。
ヨハネ福音書によれば、そのトマスのために主が現れたのは1週間後でした。1週間経った時、主は弟子たちと一緒にいたトマスに現れて、そしておっしゃいました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。
トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、神の人イエスと明確な出会いを経験しました。モーセが待ったように、トマスのためにも1週間の準備が必要だったのです。
今日の箇所で、主は「ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られ」ました。主イエスは、しばしばご自分だけで山に登り、父なる神と交わる時を持っておられました。父なる神と会話し、交わる時を楽しまれたのです。ところが、この時は御自分だけではなく3人の弟子たちを連れてその場に行かれました。人が踏み入ることのできない主イエスと父なる神さまとの交わりの中に、弟子たちを招き入れてくださったのです。そこで、父なる神は主の御姿に光を与え、御子の正体を明らかにされました。それが変貌の出来事でした。
これは私たちにとっての主の日の礼拝の場です。そして、この時こそ、主イエスが誰なのか、主イエスの御姿が明らかにされる恵みの場、驚きの時なのではないでしょうか。
3人の弟子たちが、主イエスの案内によって父なる神の御前に招かれたように、今朝、私たちも、「神からの招きの言葉」をもって御前に招かれています。するとそこには、もうすでに6日間かけて主が備えてくださった驚くべき恵みが用意されているのです。モーセやトマスのように、それを自分のものとするために、受ける私たちの側にも6日という備えの時、特別な恵みの時が与えられています。
「七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」(出エジプト記24:16)。今日は聖餐の恵みまでもが、備えられているのです。
Ⅳ.「山の麓」に共に下りて生きてくださる主イエス
この時、ペトロは目撃しました。そこに、「モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合って」(マタイ16:3)いるのです。感激したペトロは何とかしてこの状態を長くとどめておきたいと考えました。でもペトロの申し出は早過ぎたようです。主にはなすべきことがまだたくさん残っていました。この同じ時、麓で主イエスの帰りを待っている人がいたからです。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。」と言って、ペトロが歓喜の声を上げ、「ここにとどまろう」と願っている時に、山の下では、残された弟子たちの不信仰のゆえに、病気ひとつ治せず、病気の子を抱えた父親の苦しみの現実が続いていました。主イエスは、その苦しく辛い現実の中に再び戻っていかねばならなかったのです。弟子たちを連れて戻らなければならなかった。そして、その先にあった最大の務め、それが十字架でした。
このことも、礼拝から始まる私たちの信仰生活と重なります。主によって招かれ、祝福された私たちは、同じお方によって再びこの世へと派遣されていくのです。この場に留まるのではありません。6日間の戦いの只中に、その現実に送り出されていくのです。
でも、主イエスは本当に優しいお方です。恐れのあまりしゃがみ込んでしまう私たちの手に触れ、「起きなさい。恐れることはない」(マタイ16:7)と言って、起こしてくださる主イエスと言うお方がいらっしゃるのです。このように、このお方は、私たちの「生活という山の麓」、職場や学校、生活の現場に私たちと共に下りて来てくださるのです。
ペトロたちに示されたように、時に主は、将来の栄光をほんの少し見せてくださいます。そして、完全に見せてくださるという約束の中にあるのです。このように私たちには素晴らしい喜びが待っています。その日を待ち望みながら、一人ひとりに与えられた「山の麓」で、共に歩まれる主に従っていきたいと願います。
お祈りいたします。