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ファミリーチャペル 主日共同の礼拝説教

愛のつづりは―T-I-M-E

音声は11時礼拝の音声です。

2018年9月9日
ファミリーチャペル
松本雅弘牧師
コリントの信徒への手紙一 13章1~7節

Ⅰ.ある父親の体験

あるお父さんの話です。彼には大きな悩みがありました。子ども同士のけんかです。女の子同士のけんかです。取っ組み合いをしたり、叩いたりはしないのですが、3歳のお姉ちゃんが妹をいじめるのです。
あまりにも度が過ぎるので、お姉ちゃんを呼んで叱ったのです。「お姉ちゃんなのだから、弱い者いじめをしてはいけません」と。
そして最後に、「わかったか」とダメを押すと、しょんぼりしたお姉ちゃんは、こっくりと頷きます。ところが5分も経たないうちに、また「妹いじめ」が始まるのです。
お父さんは自分の無力さに途方に暮れ、そして、こう考えました。〈この子は私に似ないで悪い子になってしまったのだから仕方がない〉。
彼は、お姉ちゃんに「悪い子」というレッテルを貼り、納得しようとしたのです。レッテルを貼られた方は大変だったと思いますが、貼った方のお父さんも、それに縛られることとなっていきました。
しかしある時、ふと考えました。妹が生まれるまでは、自分ひとりで母親を独占していたのです。お膝もお乳も、全て自分一人のものでした。
母親と歩いているときに、知り合いのおばさんと出会えば、「かわいいお嬢ちゃんね」と、頭を撫でて貰っていたのです。でも下の子が生まれた途端に事態は一変しました。みんな妹に取られてしまいました。知り合いのおばさんに会っても、「ああ、何てかわいい赤ちゃんでしょう」と言う。乳母車のそばに立っている自分に向かって、「かわいいお姉ちゃんね」と言ってくれなくなった。妹が生まれてから、そうした経験をずっとしてきたのです。そのように考えてきたら、彼は、急にお姉ちゃんが不憫に思えてきました。しかも、「悪い子」などというレッテルまで貼って、半ば諦めてしまっていたのです。
お父さんは考えました。そして、「おいで、抱っこしてあげよう」と言ったのです。お姉ちゃんはびっくりした顔になって、でも恥ずかしそうに抱っこされにきました。
母親の柔らかい膝とは比べようもありません。けれど、この時は叱ったりせず、優しく話をし、お姉ちゃんの話を聞いてあげることができました。
その結果、あれほど父親をイライラさせたいじめは、その時からバッタリと止んだのです。奇跡のようだった、とその父親は証ししていました。

Ⅱ.「愛がなければ…」

「愛の賛歌」と呼ばれる御言葉があります。コリントの信徒への手紙第1の13章です。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」(コリントⅠ 13:1)とパウロは言っています。たとえ、天使の言葉のような素晴らしい言葉を語ったとしても、そこに愛がなければ、どんな言葉も相手に通じません。
愛とは、ひと言で言えば相手を信じること。相手の可能性を、それが、今の時点では明らかになっていなくても、そのことを信じて待つこと。それが、聖書の教える愛です。
これは、私たちにとって、ほんとうに痛いところを突く言葉だと思います。お父さんは、「強い者が弱い者をいじめていいのか」と言ってお姉ちゃんに説教をしました。「強い者が弱い者をいじめてはならない」というのは正論です。正しいことを言っています。でもその正しい言葉は、その子に通じませんでした。5分も経たないうちにいじめは繰り返され、むしろ、もっと陰湿なかたちになっていきました。ですからお父さんは悩んだのです。
これは、私たちが日常よく経験することなのではないでしょうか。
自分の言っていることは絶対に筋が通っている。それなのに、相手がそれを聞こうとしない。相手に伝わらないのです。
ですから、先ほどのお父さんのように「それはその子が悪い子だから」とレッテルを貼り、自分を納得させようとします。場合によっては、相手がひねくれているからだ、とか、このことを理解する能力がないからだ、などと言って、相手のせいにしてしまうことがあるのではないでしょうか。
でも、言葉が伝わらない理由は、相手が、「私は愛されていないと思ってる」だけのことです。自分自身のことを振り返れば分かることですが、自分のことを愛し、受け入れてくれる人の言葉でなければ、それがどんなに素晴らしい言葉であっても、私たちは聞きたいと思わないし、耳を傾けようともしないものです。
この時の、このお父さんのように、お姉ちゃんの行動が理解できない時、私たちはどうするでしょうか。自分のこととして考えてみると、このお父さんは賢いな、と思わされます。
最初は、レッテルを貼り、納得しようとしましたが、ふと「何か理由があるかもしれない」と思ったのです。実はそれが、聖書の教える「信じる」ということです。
「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(7節)とあります。この主語は「愛」です。「相手を信じる」とは「愛」の1つの現れ方、愛情表現の仕方なのです。
「もしかしたら何か理由があるかもしれない」と思ったということは、言い換えれば、「私はこの子をもう一度信じてみよう」ということです。それは愛する心の姿勢でしょう。すると不思議なことに確かに理由が見えてきたのです。

Ⅲ.「レタスの話」を思い出す

以前、礼拝でお話した「レタスの話」を思い出しました。どうしても理解できない行動を取る人に出会ったら、その人のことをレタスに置き換えて考えてみなさい、というアドバイスです。
レタスを育てるために、一生懸命に世話をしましたが上手く育たなかった場合、私たちはレタスに「何でうまく育たなかったのか!」と責めたり叱ったりはしません。むしろ「何でそうなったのか?」と、レタスを理解しようとするのではないだろうか、という話です。
愛することが難しい相手である場合、あるいは好きになれる理由を見つけることが出来ないような場合、レタスを見るように、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとするのではないか、あるいは、今置かれている状況を見て行こうとするのではないか。すると、不思議なことに、その人に対する見方が変わり、少しずつ優しくすることが出来るようになるというのです。

Ⅳ.愛のコミュニケーション

ある方が、「子どもは親の愛を食べて育つ」と語っていました。「子どもは親の愛を食べて育つ。たびたび親の心の扉を叩いて、『ボクを愛してくれていますか』と確かめるのだ」と。確かに、そうかもしれません。
小さな子どもだけでなく、思春期を迎える若者も同じです。親や大人は、彼らの問いかけに答えてあげなければならないと思います。「私を愛してくれていますか」という問いかけにです。
問いかけの仕方は、年齢によって、また一人ひとり様々ですが、それをキャッチして、どうやってそれに応えていくか、どのように愛を伝えようかと、その方法を考え、苦心するということが多くなると思います。
愛を必要としているのは、子どもだけでなく、親も、また伴侶もそうでしょう。「私を愛してくれていますか」という思いは、人間、誰もが持っている根本的な問いでしょう。それに応えてもらいたいというニーズは誰にでもあるのです。それらにおいても、愛を伝える努力は必要なのです。
このことを考えるためにもう一度、今日の聖書の御言葉に戻りましょう。「愛は・・・、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13:4-7)
ここで、「愛している」ということは、「相手を信じることだ」と教えています。そして、「すべてを望み」とありますから、まさに、その「信じる」ということは、「希望を失わないこと」でもあるのです。
「この子はもう、しょっちゅう妹をいじめているから、悪い子なんだ」と言ってレッテルを貼ったり、「悪い子なんだから、悪いことをやるのはしょうがない」と諦め、見切りを付けるのではなく、相手を信じ、待つことが、愛することです、と聖書は教えています。そして「すべてに耐える」と続きます。つまり、私たちが信じて、希望を失わないでいようと思ったら、その時必要なことは、忍耐だからです。ですから、聖書は、「愛はすべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と語るのです。
「信じる」ことは盲信とは違う、という説明を聞いたことがあります。盲信は、相手の現実を見ていない、だから信じることと盲信ははっきりと違うのだ、と。現実は正しく見なければならない。そうした時に、そこに、足りないところが見えてくるかもしれない。勿論、悪いところも見えて来るでしょう。ずるいところさえも見えてくる。現実を正しく見るとは、そうしたことすべてを見た上で、その人を信じるということ。そして希望を失わない、だから忍耐する、これが愛だ、これが神の愛だ、というのです。
私たちは、このように愛の中で見ていただく時に、その相手の語る言葉が、その思いが必ず心に伝わってくるのです。言葉が通じていくのです。何故でしょうか。そこに愛があるから、です。
お祈りします。