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主日共同の礼拝説教

新しい人を着る

2018年9月23日
和田一郎副牧師
創世記1章26~27節
コロサイの信徒への手紙3章8~11節

1、古い人を脱ぎ捨てる

コロサイの信徒への手紙は、全4章のうち、前半の1章と2章だけで「キリスト」という単語がたくさん出てきます。キリストという方が、どのような性質の神であるのか、そのことを明らかにする言葉で満ちています。そのキリストの力によって、キリスト者は救われたのだから、救われる前の古い自分を捨てなさい。捨てて新しい生き方をしなさいと教えているのが今日の聖書箇所です。
そして、この手紙を読む時、一人の信仰者の生き方だけではなくて、「あなたがた」と言われているように、共同体全体について述べていることを心に留めておきたいと思います。教会という共同体の中で、一人一人がどのように教会を建て上げていくべきか。その指針が含まれています。
まず8節には、クリスチャンとなった「今は」という意味で、「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。」と言うのです。はじめの「怒り、憤り、悪意」という言葉は心の中の思いです。その後の「そしり、恥ずべき言葉、うそ」というのは悪い言葉使いについて指摘しています。キリストによって生まれ変わった者は、今はもう、そうであってはいけないという具体的な教えです。人は「怒り、憤り、悪意」といった感情に支配されやすいものです。怒りや憤りや悪い言葉が、人を傷つけ争いを生んでいるにも関わらず、なかなか制御できません。

2、造り主の姿に倣う新しい人

その悪意の象徴として、創世記に記されているのがエデンの園でエバをそそのかしたヘビです。神様の言葉を捻じ曲げて、食べてはいけないと言われた木から、果実を食べさせ、人と神との関係を壊してしまいました。「悪い言葉」は、アダムとエバにもみられます。二人の口からは、神様への正直な言葉ではなく、「あの蛇がだましたので、食べてしまいました」。という責任を転嫁する言葉でした。神様との約束を破ったことから、人はエデンの園から追い出され、私たち人間に罪の性質が入ります。その罪の性質が「怒り、憤り、悪意」や、「嘘、偽り」を口にするといった行為で現われるのです。
しかし、この自分ではどうにも制御できなかった罪を、赦して下さったのは、イエス・キリストを信じる信仰があってこそです。キリストを「わたしの主です」と信じる信仰によって、エデンの園から追い出される以前と、同じ状態にもどることができたのです。
エデンの園にいた状態というのは、今日お読みした旧約聖書1章27節にあるように、人は「神にかたどって創造され」ました。「かたどって」というのは、型をとるように、神と似たかたちに造られたのです。ですから、わたしたちがクリスチャンとなって新しい人になるということは、まったく別の人間になるのではなくて、もともとあった姿、人間がエデンの園で、本来あるべき姿として、神と信頼し合う存在に戻ったということです。
そのように戻ったのであれば、という意味で、パウロは今日のコロサイ書の10節で「造り主の姿に倣う、新しい人を身に着け」なさいと言うのです。造り主の姿に倣う、神の御性質に倣って造られた状態に、戻らされたのだから、悪意をもったり、悪口を言うような、古い自分を捨てなさいとパウロは言うのです。
私たちは洗礼を受けて、神様の御性質に倣うクリスチャンになりましたが、それで完了というわけにはいきません。いつか来る終末の時までは、まだ私たちには罪の性質が残っていますから、毎日、聖書の御言葉から、新しい性質を身に着けなければなりません。
10節後半にあるように、御言葉を受け取って、日々新しくされていく。そうした人達が集まって、教会というものは立て上げられていきます。

3、多様性と統一性

しかし、教会というところは同じような教えに従っていても、同じような人ばかりではありません。他の教会から転入会されてきた方もいます。違う教派や教団の「教え」の中で信仰生活を守ってきた方と、一緒に教会を形成する時には、お互いに違和感を持つこともあるでしょう。しかし、11節に「ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません」とパウロが言っているとおり、教会というところは、どんなに文化や教派が違う人でも、イエス・キリストを主と信じる人であれば、誰でも教会に加わることができると言っているのです。
ところが、キリスト教会の実際の歴史はどうであったでしょう。パウロがこの手紙を書いた以降、教会は多くの派閥に分裂していきました。同じ神様、同じ聖書、同じ信仰を主張しているのに、私たちは一つの教会とならずに分裂を重ねてきました。
大きな動きとなったのは、16世紀の宗教改革です。当時のヨーロッパはカトリック教会が統一性を保っていましたが、宗教改革によってプロテスタント教会が生れました。
それでプロテスタント教会は一つとなって、まとまったかと思うとそうではありませんでした。プロテスタント教会の中では、聖餐式に関することが議論されました。聖餐式のパンとぶどう酒は、イエスキリストの肉と血を表しています。カトリック教会では聖餐式のパンとぶどう酒が、「キリストの体そのものと、なる」としています。しかしプロテスタントの教会では「キリストの体を象徴する」、つまり普通のパンとぶどう酒だけれども、キリストの体を象徴しているのだという解釈や、パンとぶどう酒に、「キリストが霊的に臨在する」と解釈したり、「共存する」と表現する教会があり、その解釈の違いだけで、ルーテル派、改革派、長老派、その他の教派へと分裂を繰り返していきました。パウロが、教会は一つだと言っていたのですが分裂していきました。
今でも、熱意のある人は熱意のある人と、静かに礼拝する人は静かな人と、裕福な人は裕福な人、貧しい人は貧しい人の教会を作り続けてきました。
しかし、イエス様もそのようなことを望んでいなかったでしょう。
「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ヨハネ福音書10:16節。「一つの群れ」というのは教会は一つだということです。地域教会は沢山ありますが、すべてのキリスト教会は、「公同の教会」と呼んでいる通り、一つの群れです。
特にパウロは、文化の違う外国人の伝道に尽した人ですから、教会の多様性と統一性を、説き続けた人です。そもそも教会の多様性と統一性を重視するのは、私たちが信じる神様のご性質を考えると、多様性と統一性をもつ神様だと分かると思います。私たちの信じる神様は、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神からなる三位一体の神様です。三つの位格は性質は違っても、本質において同一で、唯一の神様です。三つの性質が交わった、交わりの神様です。神様の性質の中に多様性と統一性をもっているのです。それに倣って私たち人間も、一人一人豊かな別々の個性で造られました。強い人だけではなく弱い人も、大きい人だけではなく、小さい人も造られました。男の人は男のままであり続け、女の人は女の人であり続けるように、小さい人は小さいままで、弱い人は弱いままであり続けます。共同体が一つになると言った時、集う人達が同じような性質に変われと言っているのではないのです。それぞれが違うままで一つになれるのが、一つの群れなる教会です。11節後半で「キリストがすべてであり、すべての者の内におられる」。とありますように、私たちの内にキリストがいるという、本質的なアイデンティティが共通してあれば、一つとなれるのです。

4、キリストがすべて

では、具体的に個性の違うものが集まって、様々な問題が出てきた時、どうすれば一致することができるのでしょうか。アウグスティヌスは(古代キリスト教の神学者 354年~430年)次のような言葉を残しました。
「本質的なことでは一致を、はっきりしないことでは自由を、すべてのことで寛容をしめしなさい」。
問題に対処する時に、それが本質的なことか、本質的ではない問題なのかを識別する必要があります。本質的ではないところでは、寛容を示して違いを受け入れるべきでしょう。カトリック教会も、プロテスタントの各教派においても「キリストがすべてであり、キリストが、すべての者の 内におられる」ということは本質です。しかし、パンとぶどう酒の問題は本質であったのか、疑問が残るところです。
今日はパウロの手紙から、キリスト者になった私たちは、悪意や悪口など、古い自分を捨てて、造り主である神の姿に倣って、新しい人を身に着けて、聖書の言葉を日々受け取ることで、日々新たにされていく、それが真の知識に達するという教えをみてきました。日々御言葉を受け取り、日々御言葉を実践していく中で、わたしたちは体験的に神を知っていく、真の知識に達していくのではないでしょうか。お祈りをいたします。