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主日共同の礼拝説教

愚直のすすめ

2018年9月30日
和田一郎副牧師
レビ記19章18節
コロサイの信徒への手紙3章12~14節

1、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

今日の聖書箇所は、パウロが、クリスチャンが生活の中で大切にすべきことを、教えている箇所です。クリスチャンの道徳観を表しています。聖書の中で、もっとも用いられた道徳基準は十戒であると思います。教会によっては毎週の礼拝の中で、この十戒を唱えてきた教会もあるようです。父と母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、嘘をついてはならない、隣人の家を欲しがってはならない。そして、何よりも唯一の神を信じなさい、というシンプルな教えです。
新約聖書の中で倫理基準として具体的に、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容という美徳をパウロは教えました。しかし、パウロの教える美徳と十戒の教えとは、大きく違うところがあります。それは十戒が「してはいけない」「こうしなさい」と、直接行いについて戒めているのに対して、パウロは、その行いを教えているのではないのです 。「謙遜になりなさい」「寛容な態度をとりなさい」と言っているのではないのです。前の聖書箇所には、「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身につけなさい」という言葉があります。クリスチャンとなった「新しい人」というのは、内にあるキリストの性質に満たされて、溢れ出るように、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といったものを身につけていると言うのです。つまり、努力して寛容になりなさい。謙遜に振舞いなさいと、教えているのではなくて、しっかりと信仰生活を送ってキリストに結びついていれば、おのずとそのような性質が、内側から表れるということです。それが十戒とは、大きく違うところです。日々、聖書を通してキリストの性質で満たされれば、日々の生活の中に、おのずとキリストの性質である「美徳」が表れてきます。

2、赦したら、赦される?

13節では、人間の難しい課題を問われています。それは「赦し」です。美徳の中でも、もっとも難しい人間の課題です。怒りや憤りの対象となる人の姿が見えると、「赦す」などと思う気持ちは、あっという間に吹き飛んでしまいます。
しかし、世間一般に言われる「赦す」ことと、パウロが教えている「赦し」は、少し違うようです。
赦しについては、いつも礼拝で祈っている「主の祈り』にも赦しを乞う言葉があります。
「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから…」と、わたしたちは祈っています。しかし、気をつけなければいけないのは、誰かを赦すことで、自分の赦しを求めているのではないということです。赦したのだから赦して下さいという、取引のような祈りではないのですね。カウンセリングなどで、ある人が人間関係で悩んでいるとします。「あなたは、憎らしい人のことで悩んでいますね。それを解決するには、相手を赦すしかありません。その人を赦せば、あなたの心は落ち着きますよ」とアドバイスするかも知れません。つまり、自分の意思の力で「赦す」ということを努力するのです。それはそれで安心するかも知れません。しかし、そのためには相当な忍耐と意志を必要とします。しかし、聖書の教える「赦し」は違います。わたしたちは、すでに赦されています。イエス様は十字架で「完了した」と口にされて、赦しはすでに成されました。わたしたち自身の中にある、人を赦せる力というのは、とても脆弱なものです。しかし、イエス様が赦してくださったので、赦す力を頂いたのです。
「『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」のです。(ルカ5:20)自分の意思の力ではなくて、赦してくださった十字架の力で、人を赦せる力の源を得ることができたのです。
しかし、私たちはすでに赦されていますが、終末の終わりの日までは「罪の性質」が残っています。なおも今日犯してしまう罪について赦しを求める必要があって、「主の祈り」を祈るのです。「今日、犯してしまう、私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦せますように…」と。自分がすでに多くの罪を赦されてきたことに感謝して、他人の理不尽や、過ちを赦すことができるようにと祈るのです。
今日の聖句13節後半の御言葉「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。神に赦されたことを知るとき、私たちの心に癒しが起こります。そして、人を赦すことが可能になるのです。

3、愚直のすすめ

『ドン・キホーテ』の物語をご存じでしょうか。この17世紀の物語にはキリスト教の美徳を重んじる、庶民の様子がたくさん描かれています。ドン・キホーテは妄想にとらわれて、自分を悪に立ち向かう騎士だと信じ込んで、風車を巨人だと言って突進するような人物です。彼は気が狂っていると思われがちですが、しかし、普段は理性的で、理に適った発言をしては、周囲も頷きながら聞き入るという知的なカトリック教徒でもあります。この物語はドン・キホーテと、ちょっと間抜けな農民のサンチョとの二人の珍道中の旅が舞台です。ドン・キホーテはサンチョに対して、農民だからって卑しいことはないのだと励まします。そのような中で、美徳について触れていました。「美徳が備わっていれば、王侯貴族にだって何も気後れする必要はないぞ。なぜなら、血統は引き継がれるものだが、美徳はその人が身につけるもの、だから、ただ受け継がれるだけの血統にくらべれば、美徳はそれだけで価値があるということになる。」この美徳というのは、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった振舞いでしょう。他にもドン・キホーテは「美徳の道は・・・終わりのない、永遠の命を得ることができるということだ」とも言うのです。「永遠の命」とは、クリスチャンとなった者の、新しい命のことです。ただ、カトリックの教理と、先ほど私が話したプロテスタントの教理である「永遠の命を得たから、キリストの性質を身につけて、美徳を表していく」という教理と、ちょっと違いがあるのですが、しかし、聖書から忠実に学んで、生活を豊かにしている様子が分かります。
周囲の人はドン・キホーテを狂人扱いしていましたが、農夫のサンチョは、主人を自慢していました。「うちの旦那は、ずるい心なんて、これっぽっちも持っちゃいない。下心のかけらもない。おいらはまるで自分の心臓みたいに好きになっちまった。」と愛情の念をもっています。二人の言葉を聞いていると、パウロが記した美徳、憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容を、身にまとった人、古い人を脱ぎ捨てた、新しい人に生きていると思えるのです。

4、「愛はすべてを完成させる きずなです。」

今、話しました「美徳」を、完全なものにするのが「愛」です。コロサイ14節に、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」とパウロは結んでいます。他の聖書では「愛は結びの帯として完全です」と訳していました。つまり憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった美徳も、「愛」という帯で結ばれなければ、それらは完全ではないということです。ドン・キホーテがサンチョを諭す美徳の言葉は、「ごもっともです」といった、綺麗ごとには聞こえません。それは、サンチョに対する愛があるからです。純粋な美徳には「愛」であって「うちの旦那ずるい心なんて、これっぽっちも…」と、サンチョに言わしめる、そのような「愛」がなければ、美徳は完成しません。
先に、赦しの話しをしたところで、「赦したら、赦される」のか。いや、そうではなくて、すでに赦されているのだと話しをしました。神様の「愛」も、やはりこれと同じことが言えます。私たちは神様を愛したから、愛されたのか。隣人を愛してあげたから、愛してくれてもいいじゃないか、と求めるのか。いいえ、私たちが信じる神様は、私たちに先立って愛してくださる神様です。わたしたちの中にある、人を愛する力は、頼りないものです。
神様が愛してくださったので、愛の力を知りました。その力によって、人を愛することができるのです。愛の源流は常に神にあります。恋人同士の愛、夫婦の愛、親子の愛、人を慈しむ慈善の愛もみな、愛のみなもとは神にあるという前提があることを、心に留めていただきたいと思います。私たちが愛について行き詰まりを感じた時、立ち返るべきは、神の愛です。今日は、コロサイの手紙から憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容といった美徳は、心の中にキリストという性質があるからこそ、湧き出てくるものだと学びました。その美徳の中で、もっとも困難な、赦しというものを成すことができるのは、神様に赦されていることを知ることです。そして、愛されていることを知ることです。わたしたちが愛するのは、神がわたしたちを、愛してくださったからです。愛は、すべてを完成させる絆です。お祈りをしましょう。