2018年10月7日
松本雅弘牧師
列王記下4章1~7節
マタイによる福音書17章14~20節
Ⅰ.主イエスの存在を認める
変貌山の出来事の興奮も冷めやらぬ3人の弟子たちと主イエスの一行が麓に降りると、そこで、目に飛び込んできたのは群衆に取り囲まれた、憐れな仲間たちの姿でした。
弟子たちが群衆に囲まれ、窮地に立たされていました。数時間前の、山の上での恵みの体験も吹き飛んでしまうような重たい空気感がありました。
原因は、と言えば、霊に取りつかれ発作を起こす男の子を癒すことに失敗した弟子たちの無力さにありました。
そのような中で、「ある人」が群衆の中から飛び出してきました。彼は主に近づき、ひざまずいて、事の次第を報告したのです。「主よ、息子を憐れんでください。・・・お弟子たちのところに連れてきましたが、治すことができませんでした。」
これを聞いた主イエスは嘆かれました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と。
Ⅱ.「わたしのところに連れて来なさい」
ところで主は誰に向かって嘆いておられるのでしょうか。それは、他でもない弟子たちであり、彼らを取り囲んだ群衆、そして父親をも含めていたと思います。もしそうだとすれば、主イエスがご覧になっている〈もう1つの現実〉に、私たちは気づかされるのではないでしょうか。主は「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」と、言われたのです。問題に直面して何の可能性も見えない弟子たちに、また、何もできない弟子たちに失望する息子の父親、そして群衆に向かって、「ここに私がいるではないか」と言わんばかりに、です。
このことこそ基本的な信仰の姿勢ではないでしょうか。喜びも悲しみも、悩みも問題も、「ここに持ってきなさい。私のところに携えてきなさい」と、主は招かれるのです。
私たちが問題にぶつかると、よくしてしまうのは、そこにおられる主イエスをそっちのけにして、「ああでもない、こうでもない」と思い煩うことでしょう。スマホで検索したり、友人に相談したりするものの、主イエスに尋ねることはないのです。そうした私たちをハッとさせるように、「その子をわたしのところに連れてきなさい」と主はおっしゃるのです。
父親はどうしたでしょう。彼は、主イエスの招きに従い、息子を主の許に連れていきました。その結果、事が動き始めたのです。「そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子どもはいやされた」(18節)と。
ここに悪霊のことが出て来ます。主の招きに従った時に、悪霊も活発に動き始めるのです。
同じ出来事を記したルカ福音書には、その子を「悪霊は投げ倒し、引きつけさせた」(9:42)とありますし、マルコ福音書には「霊は息子を殺そうとして」(9:22)と記録されています。
そうです。悪霊とは人を色々な意味で殺そうとする力です。破壊することで自らの力を示そうとするのが悪霊の手口であることを聖書は教えます。
Ⅲ.弟子たちの不信仰
主イエスの招きに従って連れて来られたその子を、主イエスは、悪霊を叱ることで追い出し、癒されました。
その結末をマタイは伝えています。
「弟子たちはひそかにイエスのところにやって来」た。そして、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」(19節)と尋ねたのです。
「ひそかに」という言葉は、この時の彼ら弟子たちの気持ちをよく表わしていて興味深い表現です。弟子たちにとっては、面目丸つぶれの失敗体験でした。イエスと自分たちの格の違いを見せつけられたような感じでしょう。その理由について主は、「信仰が薄いからだ」とおっしゃったのです。
いかがでしょう。「信仰が薄い」とは「修業が足りない」ということではありません。信仰の訓練を重ねればいつか一人前になり、主イエスと同じようになれる、ということではないのです。
何故なら、仮にこの「信仰」が「修業」のようなものであれば、この後に主イエスが言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。」(20節)という言葉と、その意味が矛盾するからです。
今日の聖書箇所の最後を見ていただきたいのです。20節の後に十字架のマークがあります。以前用いていた「口語訳聖書」には、20節の後に21節がありました。「新共同訳聖書」にはそれがありません。何故でしょう。
「口語訳聖書」にあった21節は「後代の付加」で、元々のオリジナルのマタイ福音書にはなかった言葉である可能性が高いとして省かれました。
「マタイによる福音書」ですが、マタイが書いたオリジナルの福音書は失われています。残っている物は、「写本」と呼ばれるオリジナル福音書のコピーです。複数の「写本」が残っています。学者たちは、それらを照らし合わせ、書かれたパピルスの質や、書かれた内容から年代を割り出し、オリジナルの復元作業をしているのです。それは現在進行形の働きです。そして何年かに1度、復元作業によって出来上がった「底本」と呼ばれる、オリジナルに限りなく近い文書をそれぞれの国に持ち帰って翻訳をします。
「口語訳」から「新共同訳」に変わったことも、その時、新しい底本がまとまったことによってであり、また現在においても、今年度末には「新共同訳」に代わる新しい「日本語訳聖書」が刊行される準備がなされています。
マタイ福音書に戻ります。「新共同訳」で省かれた21節は、「しかし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行かない。」(P60)という文章でした。
聖書の写しを作る写字生が、「信仰が薄いからだ」では物足りなく感じて、「祈りと断食」ということを書き加えたのではないか、と考えられています。このように「祈りと断食」ということを書き加えたのであれば、やはり「修業が足りない」ということに近くなってしまうことでしょう。
この時、なぜ弟子たちはこの子を治せなかったのか。「自分たちは信仰をもっているのだから、これくらいのことはできる」、「イエスさまの手を煩わせなくても、自分たちだけでどうにかなる」。
ここにはそういった、ある人の言葉を使うならば「弟子たちならではの落とし穴」があったのではないだろうか。「自分たちで何とかできる」、「何とかできるはずだ」という思いです。
主イエスはそれを「不信仰」と呼びます。いかがでしょう。そうした思いの背景には、必ず神以外のものが、「信仰に+α」としてくっついてくるのです。
「神さま+お金」だったら安心。「神さま+健康」だったらやっていけるかも。でも「神さま+0(ゼロ)、つまり信仰だけ」だったらどうでしょう。自分なりに「+α」を用意して、神から自立する。神に頼らずにやっていける自分になることではないのです。
信仰の訓練を積み重ねた結果、魔法使いのように山を動かす術を習得する。これも、聖書の教える信仰とは違います。ある人の言葉を使うならば、信仰とは、その山を造ったお方の力を信じ切ることです。「山を造ったお方であれば、山を動かすことだってできる」、そう信じること、それこそが、「からし種一粒ほどの信仰」だと主が言われることの意味です。
ここで弟子たちは無力さを経験しました。でも弟子たちの偉かったところはそれで終わらなかったことです。恥ずかしい思いを抱え無力感に打ちひしがれながら、「ひそかに」(19節)であっても、無力な思いを主イエスのもとに携えていったのです。
そして、どうでしょう。主イエスは素晴らしいお方です。本当に優しいお方です。弟子たちがお願いする前に、失敗の「償い」をしてくださるのです。
そして信仰の原点を示し、「自分のことは自分でちゃんとやっていける」という方向ではなく、「その子をわたしのところに連れて来なさい」との招きの言葉をもって、主イエスとつながる本来の生き方へと導かれるのです。
Ⅳ.耐え忍ぶ主イエスに支えられ
17節で主イエスはこう語っておられます。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。
イエスさまが言われた、「我慢する」という言葉に注目したいと思います。これは、「上げた手を支え続ける」という表現の言葉です。
この「上げた手を支え続ける」という動作を思う時に、あの出エジプト記17章に出て来る、モーセの両腕をアロンとフルが支え続けた光景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
そう言えば、主イエスも十字架の上で両手を上げ、死ぬまでそれを下ろさずに支え続けられました。
主の両腕を支えたのはアロンとフルではありません。もちろん、ペトロとヨハネでもなかったのです。手に打ち込まれた釘が支えたのでした。
十字架の場面で、実に、主イエスは死に至るまで、上げた手を下ろさなかったのです。あの釘の力を借りて最後まで、耐え続けてくださったのです。
「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。イエスさまのこの言葉からすれば、この時からすでに主の手は上げられていたことになります。
ある牧師曰く、「主の一つひとつの御業、主が語られる一つひとつの言葉には、まさに、このお方の命がかかっている」と。お祈りします。