2018年10月14日
秋の歓迎礼拝
松本雅弘牧師
マタイによる福音書6章25~34節
Ⅰ.はじめに
今日から秋の歓迎礼拝が始まりました。今日初めて教会の礼拝に出席された方々もいらっしゃることでしょう。ほんとうにようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。
今日、お読みした「聖書」ですが、これはたいへん不思議な書物なのですね。
歴史上、最も迫害を受けた書物ですが、消滅せずに生き延びています。そして、今日に至るまで、多くの人に親しまれてきています。世界で一番多くの言語に翻訳されているのがこの「聖書」です。クリスチャンではない方のご家庭にも、必ず1冊はあると思います。読まれているか、読まれていないかは別として・・・。
「不思議な書物」である、とお話しましたが、この「聖書」の不思議さの1つは、その言葉に力があること、読む者に「心の糧」を与える、ということです。
Ⅱ.思い悩む私たち
今日の聖書の言葉は、マタイによる福音書6章25節から34節の御言葉です。ここで、イエスさまは、私たち、人はいかに思い悩む存在であるかを語っておられます。
この短い個所、数えるとちょうど10節ですが、ここに、「思い悩む」という言葉が、25節、27節、31節、そして、34節に2回と、合計5回出て来ます。つまり繰り返し語られているのです。
私もお話の原稿を作る時に、この「繰り返し」という手法を使います。ただこれは、度を越すと、聞く側からすれば、しつこい印象を与えかねません。まして、こんな短い箇所に5回も「思い悩む」という言葉が使われているのです。
たとえしつこいと思われたとしても、敢えて繰り返し、「思い悩むな」ということをお語りになりたかったイエスさまの思いが、ここに表されていると思います。主イエスの目に映る私たち人間は、それほどに思い悩むことの多い存在である、そのことに気づかせたかったのだと思います。
社会を見渡しますと、子どもたちの将来、日本の将来について、そして、私たちの目に飛び込む一つひとつのことを取り上げて考え始めると、時として物凄い不安に襲われることがあるのではないでしょうか。私たちを思い悩ませる材料が次々と出て来くるのです。
Ⅲ.思い悩みから離れ、切り替えていく
ここでイエスさまは、そうした「思い悩み」との「付き合い方」を説いているように思います。いや、単にどのように付き合うかということだけでなく、そこから解放されるためにはどうしたらよいのか、そのことを教えておられます。
それが、「空の鳥をよく見、野の花を注意して見る」という生き方です。思い悩むことの代わりに、空の鳥をよく見、また野の花がどのように育つのかを注意深く観察しなさい、とイエスさまは教えてくださっています。
空の鳥、そして野の花を注意深く観察する時に、何が見えてくるでしょうか。空の鳥が、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない中で、健やかに生きている現実です。また野の花がどのように育つのかをも注意深く見てみると、そこに見えて来るのは「栄華を極めたソロモン王をしのぐほどに美しく飾られている様子」です。
さらに、このイエスさまの教えに耳を傾けていくと、空でさえずる小鳥、野原で美しく咲いている花に注がれている神さまの眼差しに私たちの心が向かいます。鳥を養い、花を装う神さまの優しい御手の動きが見えてくるのではないでしょうか。
空の鳥と野の花を観察したそのあなたの目をもって、あなた自身に注がれる神さまの眼差しを、そして、あなた自身の命を支えておられる神さまの御手の業を、注目して御覧なさいと主イエスは、教えるのです。「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」、「今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と。
空の鳥、野の花が健やかに生きている、それ以上に、私たちに生きるべき命を与え、健やかに生きるようにと支えておられる神さまです。
使徒パウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と語りました。確かに見える物は年を追うごとに変化していきます。
パウロの言葉を使えば、「見えるものは過ぎさ」るのです。そして、それが真理であるように、実は、「見えないものは永遠に存続する」のだと聖書は語るのです。
そうです。空の鳥、野の花、そしてイエスさまがおっしゃったように、私たちの上に注がれている神さまの愛の眼差し、神さまの温かな御手の働きは、すぐには目に見えません。心の目をもってよく観察してみないと見えてこないものですが、そうした「見えないもの」は決して過ぎ去ることがないというのです。そこにフォーカスし、そこに焦点を合わせる作業が、聖書を読んだり、賛美歌を歌うこと、日曜日ごとの礼拝の時なのです。
以前、鎌倉黙想の家に行った時に、祈りの指導をしてくださった先生が、こんな話をされました。ちょうど震災のあった2011年の頃でしたが、その先生が震災後、50日くらいして、被災地にボランティアに行ったそうです。そこは津波で流されたところですから当然、人は住んでいません。住めない状況でした。でも、そこに小さな花が咲いていたそうです。そして、空を見上げると、普段と同じように鳥がさえずり、舞っていたというのです。
その先生は、地震の4日後の3月15日に、同じ場所を訪れていました。その時には勿論、花は咲いておらず、空には鳥の姿すらみえなかったそうです。鳥のさえずりが途絶え、花は姿を消していました。
その状況は、今日のイエスさまの教えからすれば、ある種の危機的な状況です。なぜなら鳥がさえずり、花が咲いているということは、神さまがそれらを養い、装ってくださっていることの証拠、神さまが生きて働いておられることの動かぬ証拠だからです。鳥がさえずり、花が咲いていたら、そこに希望がある、ということだからです。
ここで主イエスは、「明日のことは思い悩むな」と言われ、「空の鳥、野の花をよく観察するように」と言われた後、34節で、「その日1日の苦労で十分である」とおっしゃいました。決して、「苦労などない」などと、非現実的なことを言われているのではありません。はっきりと、「その日1日の苦労はある」とおっしゃるのです。
確かに、毎日、苦労が絶えませんね。生きていく上では、様々な責任がつきものですから。家庭での責任は勿論、幼稚園や学校でのお役もあるかもしれません。お仕事をしている人でしたら職場での責任もあるでしょう。誰にでも「その日1日の苦労」は必ずあるものでしょう。
今日、取り上げた、このイエスさまの教えは、マタイ福音書5章から始まる、「山上の説教」と呼ばれている一連の教えの一部なのです。
この説教は、こういうイエスさまの言葉で始まっています。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。・・・」と、「8つの幸い」を説かれるところから始まっている教えです。
これは、主イエスの励ましの言葉なのです。この説教が誰に向かって話されたのか。それは、病人や貧しい人、様々な重荷を抱えていた人たち、勿論、そこには弟子たちもいました。そのように弱い立場の人たち、イエスさまに助けを求めて集まってきた多くの人々に向かって語られた説教でした。イエスさまの言葉を使うならば、思い悩みや思い煩いで心が一杯一杯の人たちです。その人たちを前に、主は、この「8つの幸い」を説かれたのです。
たくさんの苦労で一杯になっている人に向かって、「あなたたちは、幸いですよ」とおっしゃったのです。少し堅い表現ですが、これは、「大丈夫!」という意味です。
「天の国はみんなのものなのだから、大丈夫!」。重荷を負って悲しんでいる人も幸いですよ、とイエスさまは言われます。「今、悲しんでいるけど、あなたを慰める神さまがおられ、必ず涙をぬぐってくださるから、大丈夫!」と言ってくださっているのです。
あなたは独りぼっちだと思っているかもしれないけれど、神さまの温かい優しい眼差しがあなたに注がれている。その眼差しを感じながらやっていきましょう! と、主イエスさまは言われるのです。
Ⅳ.明日を主に委ねて生きる
何か壁にぶち当たるような時、今日のイエスさまの御言葉を思い出しましょう。
イエスさまが言われるように、顔を上げ、空を見上げ、空を飛ぶ小鳥たちを見つけましょう。また、道端に咲いている花を見つけましょう。
神さまがおられるから、そうした鳥は養われ、小さな草も花でもって装われていることでしょう。その神さまが、私を養い、装ってくださるのです。私や、私の家族を守ってくださる。だから「大丈夫です!」。
その主イエスさまの御声に心の耳を澄ませていきたいと思います。
お祈りします。