2018年11月4日
松本雅弘牧師
使徒言行録 2章14~21節
Ⅰ.はじめに
今日は来年度の「活動方針」をお配りしました。私たちは、2004年から「信仰生活の基本」の1つひとつを、毎年の活動テーマにしながら歩んできました。
従来のやり方からすれば来年は、「信仰生活の5つの基本①」の「キリストを知り、キリストを伝える」、つまり「宣教」というテーマに戻るはずでしたが、長老たちと共に祈り取り組む中で、2019年からの5年は、今まで通りのやり方を繰り返すのではなく、今、高座教会にとって大切なこと、今、手をつけるべきことを集中的に神さまに尋ね、それを1つひとつ取り上げて進んで行きましょうという結論になりました。
そして、来年度の活動方針のテーマは、「私たち、集い喜び分かち合う―使徒言行録2章の教会をめざして」です。
主題聖句は、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2:17)と決まりました。
Ⅱ.使徒言行録2章の教会をめざして
はじめに、副題にある「―使徒言行録2章の教会をめざして」の「使徒言行録2章の教会」についてお話したいと思います。
これは2千年前のペンテコステの日に聖霊が降ったことで、エルサレムに誕生した初代教会のことを指しています。その時の様子が使徒言行録2章に書かれていることから「使徒言行録2章の教会」と呼ぶようになりました。その誕生の背景を見てみましょう。
使徒言行録第1章には、十字架にかかり3日目に復活された主イエスさまが40日間、弟子たちにその姿を現わされたことが記されています。その時に、主が伝えたメッセージの中心は「神の国が現れたのだ」、という「神の国の到来」でした。
さらに、そこには「神の国の到来」という福音を伝える者に用意された特別な恵みの約束がありました。「聖霊を与える」という恵みです。その恵みを受けるために、主は、エルサレムを離れずに約束の実現を祈り求めなさいと、弟子たちに言って昇天して行かれたのです。
その命令をしっかりと守り、エルサレムを離れないで、心をひとつにして祈り待ち望んでいた弟子たちの様子が、使徒言行録1章には記されています。
父なる神さまの約束を信じて待ち望んだ結果、主が昇天された10日の後に、この約束が実現します。
聖霊が降臨したのです。
その時の様子を、著者のルカは次のように伝えています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒2:1-4)
それだけではありません。出来事を目撃した人々はあっけにとられ、その中のある者たちは、彼らは酒に酔っているのだ、と考えていたことをルカは、伝えています。
このような出来事に続いて、今日お読みした2章14節からの「ペトロの説教」が始まるのです。ペトロは立ち上がり、この現象は、酒に酔っているからではなく、旧約聖書のヨエル書の預言の成就である聖霊降臨によって生じたのだと説明します。
彼が引用したヨエル書によれば、聖霊が降ると「あなたたち」を基点に「あなたたちの息子と娘」、「若者」、そして「老人」と、4世代の者たちが聖霊によって熱心に主を証しする共同体になるというのです。
Ⅲ.ナウエンの言葉
先日、黙想会に行かせていただきました。黙想会の半分ほどが過ぎた時、指導する先生との面談の時がありました。参加した理由、そして半分過ぎた時点での神さまの導きや気づきについてお話しし、後半に向けての祈りの方向性を示していただきました。面談の最後のところで、先生がこんな話をしてくださいました。
ヘンリ・ナウエンが、あるキリスト教雑誌のインタビューを受けた時の話です。インタビューが終了すると質問を受けていた側のナウエンが雑誌の記者に向かって次のように投げかけました。
ナウエンの目に映った記者の姿、彼の背後にある、教会の信仰的文化について、こんなコメントをしたというのです。
あなたは一生懸命になって「神のため」に頑張っておられる。それは素晴らしいことだ。でも信仰生活にはもう1つ大切な側面がある。それは「神と共に」という側面だ。神と共に生活する。何故なら、教会の働きは本来、神の働きなのだから。人間はそれに参与させていただいている。だから、「神のために」というところから、「神と共に」、いや「私が何かをするのではなく、神が私を通して何かをなさる」。そうした視点が大切なのだと思う。ナウエンは、インタビューをした記者にそのように語ったというのです。
このエピソードを、黙想会の先生は面談の最後に分かち合ってくださいました。終わって部屋に戻りましたが、このお話が私の心を捕えました。
私たちは教会の計画を立てます。当然、その計画は神のための計画でしょう。でも時として私たちは、神に尋ねることなく、私たちがしたいこと、私たち自身の夢や願いを実現しようと計画を立てるのではないでしょうか。
「神のために」と言いながら、実はやりたいことをしているに過ぎない。そうしたことも起こり得るのです。でも御前に心を静めて祈る時、私たちの心の深いところに、神が与えてくださっている願いがあることに気づくのです。
来年の主題聖句に「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と、あるように、聖霊によって与えられる本来的な望みです。そのために、まず「主の祈り」にあらわされた「御心がなりますように」という祈り、「御心がおこなわれますように」と祈る祈りが、私たちにとってなにより大切になるのです。御心こそが最善だからです。
Ⅳ.「私たち、集い喜び分かち合う」を合言葉に
使徒言行録を記した著者のルカは、聖霊降臨によって誕生した「使徒言行録2章の教会」と呼ばれる教会に集うクリスチャンの様子を、「教会はこうあるべきだ、クリスチャンはこうでなければならない」ということで示してはいません。むしろ、聖霊が働いた時の結果を淡々と報告しているのです。
高座教会が使徒言行録2章の教会のように聖霊が力強く働く教会として形成され、「集い喜び分かち合う」教会であるようにと願います。
しかし、それはあくまでも聖霊の働きの実であり、神さまの恵みによるのです。そうした中で、私たちの側で出来ること、それが説教の冒頭でお話しした「ぶどうの木であるキリストにつながる」ということです。
聖書には聖霊の実を実らせるためのプロセスが示されています。それをイエスさまは「ぶどうに木であるキリストにつながる」と教えてくださったのです。分かり易い表現を使うならば、「主イエスとの関係を大事にすることからスタートする」ということです。
聖書の最初から終わりまで、神さまは私たちを招かれるお方としてご自身を現されました。アダムもエバも、アブラハムも、モーセも、ダビデも、イザヤも、エレミヤも、ペトロも、パウロも、彼らから神さまを求めたのではなく、神さまの方が彼らを招かれたのです。
神さまが私たちを恵みの中で回復させ、恵みの中で成長へと導かれるのです。あくまでも、始まり、入り口は、私たちをまず神さまとの生きた関係に招くということです。ぶどうの木であるイエスさまにつながるようにと、まず主イエス・キリストの神との愛の関係に招いてくださるのです。
先ほどのナウエンの言葉ではありませんが「神さまのために何かしてやろう」とか、「人のために何かしよう」というところからも始めません。
仮にそこから始めようとすると必ず息が切れてしまいます。あの「マルタとマリア」のマルタのような状態になるでしょう。ですから、まず主イエスとの関係から入ります。
キリストが「ぶどうの木」で、私たちは「その枝」です。主イエスは「良い枝になってからつながりなさい」と言われてはいません。「疲れている者、重荷を負って苦労している者は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう」と言われたのであって、「元気になって、出直して来なさい」ではないのです。主は、あるがままの枝の状態で私のところに来てつながりなさいと言われるのです。そうすれば「癒しという実」、「安らぎという実」をいただけるというのです。枯れたように見える枝でもちゃんとぶどうの木につながれば聖霊の「樹液」が流れ、やがて命がみなぎり実を結ぶのです。つながればそうした結果になるのです。
使徒言行録2章の教会は生き生きしていました。まさに「集い喜び分かち合う」教会でした。何故そうなったのでしょうか。それは、彼らがぶどうの木につながったからです。
来年度、私たちが追い求める教会の姿、「私たち、集い喜び分かち合う」とは、まさに集い、喜び、分かち合うことで「ぶどうの木であるキリストにつながろう」という合言葉であると共に、そのようにして、いよいよ「集い喜び分かち合う」使徒言行録2章の教会のような高座教会へと導かれていきたいと願うのです。そのためにもまず「ぶどうの木であるキリストにつながる」。キリストとの関係を大切にしていく。この信仰の原点を常に大切に歩んでいきたいと願います。
お祈りします。