2018年11月18日
松本雅弘牧師
出エジプト記30章11~16節
マタイによる福音書17章22~27節
Ⅰ.出来事の背景
前回までの出来事は、ガリラヤ地方での話ではありません。もっと北にある高い山で起こった変貌山の出来事、それに続く、無力さに打ちのめされる弟子たちの物語でした。
主イエスの一行は、再びガリラヤに戻ってきました。この時、領主ヘロデの迫害を逃れ、ガリラヤ湖をひと回りぐるりと巡って、主イエスの一行は、再び、このガリラヤに戻ってきたのです。主イエスの命を狙うヘロデは健在で、殺意も消えていません。この時もなお、主の命は狙われていたのです。
そのような状況の中で、一行は再びガリラヤに集結し、この後ヨルダン川沿いに南下して、いよいよ、主イエスはエルサレムにお入りになるのです。
そんな彼らに向かって主は、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」(22節)と言って2回目の受難予告をなさったのです。これを聞いた弟子たちは非常に悲しみました。その後、24節からの神殿税にまつわる話が続くのです。
Ⅱ.神殿税とは
場面はカファルナウムです。カファルナウムはガリラヤ湖畔の大きな町で、主イエスはここを拠点としておられました。そこにはペトロの家があり、その家をご自分の家のようにしておられたことが、福音書の記述から明らかです。
ところで、24節から出て来る神殿税にまつわるやり取りは、実は、主イエスとペトロの2人だけの場面で起こったと考えられます。
主はペトロに家の中にいたのでしょう。そしてペトロは外にいました。そこに「神殿税を集める者たち」がやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と訊いてきたのです。それに対してペトロは「納めます」と答えました。
そのやり取りを家の中で聴いていた主が、ペトロに対して神殿税にまつわる話をし、そして湖に行って釣りをし、釣った魚の口から見つかる銀貨をもって納税しなさいと語られたという話です。
原文では、「神殿税」という言葉は「2ドラクマ」と、お金の単位だけが出て来ます。ですから、ここを直訳すれば、「神殿の税金として2ドラクマを集める人たち」となります。
1ドラクマは、労働者1日分の賃金ですから、2ドラクマとは2日分の労賃に相当します。
当時、ユダヤでは20歳から、年1回の神殿税を納めることが義務付けられていました。納期が来ると、村の世話役が税を集めて回ります。集められたお金は、神殿の修復に使われ、他の用途のために用いることは固く禁じられていました。
神殿のためだけに使われる、ということになると、金持ちなどは、もっと多く献金したいと考えたかもしれませんが、神殿税は、金持ちも貧しい者も同じ額だけ納めることになっていたのです。その理由は、この捧げ物が、命の贖いのため、また禍を招かないために神殿を修復するという、最も大事な支出を、みなが平等に負うことで人々が祝福のうちに生きるしるしとなるとされていたそうです。ですから逆に、納めることをしなければ、その年、その人にどんな災難が降りかかるか分からないということになります。
納めない者は当然、不安を抱えて生活したでしょうし、集金する者も「あなたの罪は赦されないし、その罰がくだるのを覚悟しなさい」と脅していたかもしれません。
Ⅲ.ガリラヤでの最後の奇跡
そうした集金係の者たちがやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」とペトロに尋ねたのです。問いかけられたペトロは慌てたと思います。カファルナウムはペトロの地元です。隣近所といざこざを起こしたくない。ですから、とっさに「納めます」と返事しました。原文は単純で、「はい」となっているだけです。
そう答えて家の中に入っていくと、主イエスがおられ、今度は、主がペトロに対して「地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子どもたちからか、それともほかの人々からか。」と尋ねられたのです。
ペトロは「ほかの人々からです」と答えます。すると、主イエスは「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ」とおっしゃいました。
ここで主は、「子は納めなくてよいわけだ」とは言わず「子どもたちは…」と複数形でお語りになっています。それは、主イエスのことだけではなく、そこに居たペトロも含めて「子どもたち」と語っておられるのです。
その証拠に、湖で取れた魚の口からは銀貨1枚が出て来ると予告しておられます。銀貨1枚とは4ドラクマに相当します。神殿税は2ドラクマですから、自分とペトロの2人分の神殿税を意味したのです。
主は微笑みを浮かべ、喜んで、ペトロの分までもお金を用意しながら、「シモン、あなたもわたしと同じ神の子なのだよ」と言ってくださっているのです。
当時人々は、聖書の教えがどのようであったにせよ、できれば納めたくない。でも仮に納めなければ禍を招く、世間から何を言われるか分からない。そうした恐れの動機で納めていたのがこの神殿税だった思われます。
しかも2ドラクマ、2日分の労賃です。安くはない金額です。でも仮にそのお金を惜しんだら神との間にいざこざが起こるかもしれない。ひどい目に遭わせられたら困るので仕方ないから出しておこう。このように、自由な信仰心からではなく恐れや捕われが動機となっていたのです。
私たちの日常でも、おかしなことですけれども、息子に悪いモノがとりついているのでお祓いが必要だ、とか。そこまではいかなくても、テレビでたまたま流れた星占いが今日の運勢と知って、その日一日、心が捕われてしまう。また、人の噂や人の目が気になる。そのようなことがあるのではないでしょうか。
考えてみると、私たち自身がどれほど何かに捕われ、不自由の中にあるか、と思うことがあります。
主からの受難の予告を耳にした弟子たちは「非常に悲しんだ」と福音書は伝えています。原文を忠実に訳せば、「悲しまされた」と言う表現の言葉です。「彼らの心は悲しまされた」のです。私たちの先生も、結局は、自分たちの力を越えて働く運命のようなものに捕えられてしまっている。そのように考えたからなのではないでしょうか。
主イエスに、ここまで付いて来たけど、結局、これでおしまいらしい。主と言えども禍には勝てないらしい。
そうした悲しみに打ちひしがれていたペトロのところに人々がやって来て、「あなたの先生も私たちと同じように、この1年の無事と祝福を保証するための神殿税を納めないのか」と質問したのです。ですから、「はい」と答えるしかなかったのかもしれません。そうした場面なのです。
そのペトロに対して主イエスがおっしゃいました。「子どもたちは納めなくてよいわけだ」。「あなたやわたしは、神の子たちなんだから、無病息災や家内安全のために納めるものなら納めなくてよい。あなたたちはすでに神によって守られている。」と言われたのです。
あなたを捕えて離さないのは禍でも運命でもない。悲しみの霊でも死の霊でもない。慈しみ深い父なる神に守られているのだから、とおっしゃったのです。だから、あなたは恐れることはない、恐れから自由にされている。
ペトロにとって、これは大きな慰めの言葉だったと思います。そうした上で、イエスは「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」(27節)と言われました。ある人の表現を借りれば、何か楽しい手品を見せていただくようなユーモアたっぷりの仕方で、主は銀貨をご用意くださったのです。
Ⅳ.つまずかせないために
この時ペトロは本当に安心したと思いますし、心から励まされたことではないでしょうか。そして、そうした上で、主はペトロに大切な生き方を教えたのです。それは「彼らをつまずかせないために」という生き方です。宗教改革者の言葉を使うならば「キリスト者の自由」ということです。
自由に任せて、勝手なことをしてはいけない。躓く人がいるならば、その人を躓かせることをしてはいけない。何を食べてもかまわないというような時にも、食べたら人が躓いて、神を知ることの妨げになるかもしれない。もしそうならば、それを食べるのをやめよう。
物分かりが悪いから彼らは躓いている。頭が固いから、本当の自由を知らないから、彼らは躓いているのだ。彼らは古臭い人間だなどと言って、馬鹿にするようなことがあってはならない。私たちに与えられている自由は、人を躓かせないための自由だからです。人の足元から、できるだけ躓きの石を取り除き、彼らが立つことができ、歩くことが出来るようにすることを、主はペトロに求めたのです。
主イエスは、広い心を、それも一対一の場面で、親しく優しくペトロに教えてくださいました。今日、私たちが遣わされているこの世界は、違う立場の人に対して不寛容である傾向をいよいよ強めているように思われます。
主イエスは、原理原則を主張するのではなく、相手を立て、ユーモアとゆとりをもって対応するように、私たちを、礼拝をとおして導いてくださいます。
これからも、私たちはこの主の許に結集し、このお方らかもっと学ばせていただきたいと願います。お祈りします。