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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

キリストの言葉

2018年11月25日
和田一郎副牧師
申命記1章9-18節
コロサイ3章16節

1、キリストの言葉

今日のコロサイ3章16節にある「キリストの言葉」と言った時に、二つの意味があると思います。一つは、イエス様が話された言葉、もう一つは、イエス様についての言葉 という意味です。聖書の中では、キリストご自身の言葉より、圧倒的にキリストについての言葉の方が多く書かれています。旧約聖書全体は、救い主イエス・キリストを通して、救いのみ業が実現することが預言されていますし、新約聖書では、イエス・キリストについての証しと、やがてくるキリストの再臨の希望が書かれています。つまり、旧約と新約聖書の全体をとおして「キリストの言葉」が記されています。
キリスト教というのは「言葉の宗教」だとも言われます。ヨハネの福音書には、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」とあります。この世のはじまりに、まず言葉がありました。そして創世記の天地創造のはじめに、「神は言われた。『光あれ』」こうして、光があった。」(創世記1:3)とあります。「光あれ」と言われ「光があった」、これは言葉の成就です。聖書はこのことの繰り返しです。神の言葉には力があって、言葉が成就していく出来事を聖書は記しています。そのような、「言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」。というのです。これは、昔からある「ことわざ」のような言葉などではありません。神の御心によって発せられた言葉が、そのように「なる」という、生きた言葉です。

2、互いに教え、諭し合い

ところが、この言葉に抵抗して、神の言葉よりも、自分の知恵で生きることを選んでしまうのが人間の性質です。そのようにならないように、パウロは16節のところで、教会生活をしっかり守るように励ましています。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」とあるのは、クリスチャン個人にではなくて、教会全体への提言として、言われていることです。つまり、クリスチャンが、正しく霊的に成長させられていくには、共同体との交わりを通して整えられていく必要があります。パウロは教会生活で「互いに教え、諭し合い」なさいと言ってますが。「諭す」というのは、間違っていることは、はっきりと正すという意味です。そうして互いに教え合って成長していくように勧めています。
今日、読みました旧約聖書の箇所は、申命記の1章ですが、ここにも共同体の中で「教え、諭し合う」という在り方を見ることができます。出エジプトの出来事の中で、イスラエルの民のリーダーであるモーセが、何をするにも一人で仕事をこなしていたのを、しゅうとのエトロが見ていて諭したのです。「このやり方はどうしたことか?」と正したのです。エトロの助言は、責任の分担、役割分担が必要だから、「千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい」。問題をさばくことができる人々を選んで、その人たちにも責任を担ってもらうという方法です。
モーセは聖書の中で「誰にもまさって謙遜であった」と言われるように、エトロという年長者の助言を聞く耳をもっていました。しかし、このエトロの助言を聞いてから、実行するまでにはある出来事がありました。助言を聞いてすぐに命令をくだしたのではないのです。
そして 1:14節「 あなたたちがわたしに答えて、「提案されたことは結構なことです」と、モーセが提案したことを、民衆も「結構なことです」と同意したと記されています。
モーセはエトロの助言を聞いて、それは神の御心に適うことだと、祈ることで確信をもちました。ですがまだモーセだけの確信でした。自分の確信を関わる人々にも提案して、確信を共有する時間をもったのです。
また、申命記1章の16―17節では次のような言葉が続きます。「同胞の間に立って言い分をよく聞き」、「等しく事情を聞く」、「わたしが聞くであろう」と、「聞く」という言葉が繰り返されています。
このように、イスラエルの共同体の営みをとおして、私たちの教会生活においても、「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」という在り方を見ることができます。自分と教会との関わりの大切さを顧みることなしに、人として正しく成長することはかないません。

3、一人よがりの罠

ソロモン王は、ダビデが築いた王国を引き継いで、神を畏れる者として良い政治をするように尽くしました。しかし、豪華な宮廷生活をするなかで王国分裂の要素を作っていきました。ソロモンはかつて知恵を求めました。自分は知恵のない者だと自覚して、ないものを素直に求めました。しかし、権力であったり、多くの物を所有する中で失ってしまったものがあったのです。それは「神の前で自分がどう在るべきか」というものです。私たちは教会に繋がる事によって、教え合い、諭し合いながら「何を成すか?」ではなく「自分がどう在るべきか?」を考えさせられます。
そのように、コロサイの教会の人々にもなって欲しいと願ったのです。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い」自分がどのような者で在るか?を、キリストの言葉の中で見出してもらいたい。そのような教会で在って欲しいというのがパウロの願いでありました。
4、礼拝を豊かに
それに加えて、パウロは「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と、コロサイの教会に向けて、さまざまな賛美のスタイルによって、礼拝を豊かなものにするように勧めています。礼拝の形式というものは、決して正しい一つの形式があるわけではありません。時代や地域、そこに集まる人の個性によって変化していくものです。なんでも好きに礼拝して良いということではありません。大切なのは、礼拝において、神様が臨在されるという「リアリティ」と「秩序」です。このバランスが大事です。形骸化した礼拝をイエス様は厳しく批判されました。生ける神様に対して、生きた礼拝をすることができているのか。これは、いつの時代教会に求められます。
ある礼拝学の学者は、「礼拝は教会の血液だ」と言いました。血液が生き生きしていないと、礼拝ばかりか、教会全体が不健康になってしまいます。「生ける神様に、生きた礼拝を」わたしたちは、問い続けていきたいと思います。
今日は、コロサイ3章16節から、教会生活の在り方について考えてきました。その中心にあるのは「キリストの言葉」を、心に留めておくことです。わたしにも大切にしている聖書の御言葉があります。ルカによる福音書22章32節です。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私が25歳の時に、母が1年間の闘病生活で天に召されたことが、信仰を持つきっかけだという話しは何度かしました。その母の葬儀の時、高座教会のある姉妹が来て下さっていたそうですが、わたしは、そのことに気づきませんでした。葬儀の数日後、その姉妹から手紙をもらったのです。そこにはこうありました。「小さい頃の一郎ちゃん、しか知らない私は、葬儀の時立派に成長された姿を見ました。お母さまと最後に病院で会った時に、家族に遺言書を書いたと聞いております。その中に是非、信仰をもってもらいたいということも書かれていたのではないかと思います。是非、お母さまからの信仰を受け継いで欲しいと心から希望しております。そのように祈らずにはおられません。説教がましいと思うかも知れませんが、これはお母さまとの友情を思う時、書かずにはおられないのです。」
これが私が25歳の時に受け取った手紙です。それから10年以上もたって、遠回りをして、わたしはようやく高座教会で信仰を持つことができました。しかし、その手紙を送ってくださった姉妹が高座教会にいるとは知りませんでした。私の母は、ここの教会員ではなかったからです。その姉妹から「あなたはもしかして、和田頼子さんの息子さんではありませんか?」と言われました。そこで、もしかして、あの手紙をくれた母の友人かな?と思い起こし、この教会で会う事ができたのです。洗礼を受けた時、あの手紙を頂いてから15年が経っていました。私は、そこで祈られていたことを知りました。私は子どもの頃から、母の信仰をとおして、信仰の種を撒かれていたと思います。でもずっとその種から芽がでませんでした。しかし、母やその手紙をくださった姉妹や、多くの方々から、そして何よりも、イエス様に、信仰の種が芽を出して、実りがあるように祈られていたのだと思います。信仰を持つまでの長いあいだ。教会とは遠いところにいて、信仰の種が枯れてなくなりそうな時がいつもありました。今、このようにあるのが不思議です。
「わたしは あなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
私の信仰がなくならないように祈っていた人がいました。
だから立ち直ることができました。そうして今、ささやかですが、兄弟たちを力づける働きの、一端に置かれていることに感謝しています。
「キリストの言葉が、あなた方の内に豊かに宿るようにしなさい」
みなさんにも、大切なキリストの言葉があるかと思います。この言葉は命の水です。キリストの言葉を飲む者は決して渇かない、永遠の命に至る水です。「キリストの言葉」を、共に豊かに受け取って、歩んでいきたいと思います。お祈りをしましょう。