2018年12月2日
第1アドベント
松本雅弘牧師
創世記11章31節~12章9節
マタイによる福音書1章1~17節
Ⅰ.待降節(アドベント)と紫の布
今日からアドベント、キリストの御降誕を待ち望む待降節の季節に入り、緑から紫に典礼色が変わりました。
教会の暦でこの紫の布が、再び講壇に掛けられるのは、主の御苦しみを覚える受難節ですが、今は、クリスマスを待ち望む、ある意味で楽しい季節です。けれども教会は、悔い改めを促す紫の布を礼拝堂に掲げながら、この季節を過ごしていきます。
Ⅱ.救い主の系図
「社会鍋」で有名な救世軍の創始者山室軍平が、若い時、聖書に出会い、感動してクリスチャンになりました。この感動を、独り占めしては申し訳ないと思って、聖書を1頁々々バラバラにし「是非、読んで欲しい」と一枚ずつ友人に配ったそうです。後日、ある学生が、その話を聞いて、「その第1頁をもらった人は、全く興味がわかなかっただろうに」と呆れ顔で言ったそうです。
「その第1頁」が今日のマタイ福音書1章1節から始まる系図です。最近、NHKの番組で「ファミリー・ヒストリー」というものがあります。自分たちのルーツ、自分って一体どういう者なのかを探る中で、いつの間にか、どこに足場を定め、どう生きていかねばならないのかを考えさせられるように思いました。
そのような役割を担ってきたのが、ここにある系図です。日本においても同様の時代がありましたが、イスラエルにおいては、特に大事にされてきました。
旧約聖書のバビロン捕囚後に書かれたものには系図が多く出てきます。歴代誌の初めなどを見ますと、そこに出てくるのは、名前の羅列や系図です。
このように大事なリストに自分の名前が出てくるかどうかは大きな問題でした。そうした歴史的、文化的背景のなかで、福音書記者マタイは、ここで真面目に系図を語っているのです。そして、そうした思いをもって、この系図と向き合う時、改めて様々なことを教えられます。
Ⅲ.系図の中の特別な人々
まず、第1に注目したいことは、この系図に4人の女性の名前が出て来ることです。
3節の「タマル」、5節の「ラハブ」、同じく5節に「ルツ」、そして4人目は、6節にある「ウリヤの妻」、名前は「バテシェバ」です。
実は、系図の中に女性が登場すること自体が当時のユダヤ人にとって驚きでした。何故なら、ユダヤ人が血筋を語る時、それは男が作るもので、女性が作るものではないと考えていたからです。系図は男性の血が絶えないように、それがどう続いているか、そのことを明らかにするためのものでした。ですから長男が生まれそうもない場合、男性には2人でも3人でも妻をめとる権利が与えられた時代がありました。
何故なら長男が生まれることが一番大事なことだったからです。ですから、当時のユダヤ人にとっての妻、また女性は、嫌な言い方になりますが、自分たちの血筋を作っていくために必要な存在でしかなかったのです。
だとすれば、マタイが記した系図に女性の名前が入っていること自体が異例中の異例です。4人も入っているのです。しかも彼女たち4人は悪い意味で特別な女性ばかりでした。
3節のタマル、「ユダはタマルによって、ペレズとゼラを」とありますが、ユダとはタマルの舅です。夫との間に子がなく、今後も期待できませんでしたので、タマルは遊女に扮して、通りかかった舅のユダを誘惑して子をもうけたのです。
2人目のラハブは正真正銘の遊女です。そして3人目はルツ。彼女は素晴らしい信仰の女性でしたが異邦人なのです。それも、ユダヤ人が結婚を禁じられていたモアブ民族の女性です。
この後に、マタイ福音書に記されている、御子を拝むために東方からやって来た博士たちが訪れたユダヤの領主ヘロデ大王、彼は、救い主の誕生の知らせを聞いた時、ベツレヘム付近の2歳以下の幼子を虐殺する命令を出した人でした。
彼は、自分の血筋に異邦人の血が流れていることをひた隠しに隠して来ました。そのために、証拠隠滅を図り、役人を殺したり、他人の系図まで抹殺しようとして権力を振るったと言われます。この時代は、それほどまでに純血性が問題とされたのです。
そうした視点で主イエスの系図を見る時、系図に女性が含まれていることだけでも異様であるのに、それに加えて異邦人、しかも、最も忌み嫌うモアブ人の血が流れていたのだと、マタイはこの系図を綴っていくのです。
そして、6節の「ウリヤの妻」、バテシェバ。バテシェバは、ウリヤと夫婦関係にありながら夫ウリヤを裏切った女性です。夫を裏切った上に、ダビデとの間に罪を犯し、子をもうけた女性です。
説教の準備をする中で、あるドイツの注解者のコメントを知りました。
「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」とマタイ福音書に書いている。ここにはバテシェバという名前は出てこない。なぜそうなのか。このウリヤが異邦人であったことを伝える意図もマタイにあったのではないか、というのです。
そしてダビデが、「ウリヤの妻」であって、ダビデの妻ではなかった女性によって、子をもうけたことも併せて伝えている。
とすれば、この系図は女性の罪の物語ではなく、男性も罪を犯している、そのことを示しているのです。そして、ダビデ以降、この系図はイスラエルの王家の系図となるのです。
この系図に登場する名前の人物を旧約聖書で調べてみると、主なる神さまの国イスラエルの王たる者が、どうして、と呆れてしまうような出来事の連続です。
預言者ホセアは、主なる神を捨てて、別の神々に走る人々の姿を、自分の妻の不貞と重ね合わせ、姦淫の罪として糾弾しましたが、イスラエルの歴代の王たちは、女性関係で節操を欠いただけではなく、神との関係において、著しく節操を欠く歴史でした。
ある人の言葉を使えば、「信仰についても浮気の歴史」がここに出て来るのです。その行きつく果てが、バビロン捕囚でした。
ですからそれ以降、系図に出て来る名前を旧約聖書の中で見つけ出すのは難しくなります。何故なら、ダビデ王家の血筋が言わば無名の人々へと落ち込んで行くからです。
そして、やがてその血筋に生まれたヨセフはナザレの大工だったとマタイは語ります。大工が王様に出世していく成功物語ではなく、王の末裔が没落して大工となったファミリー・ヒストリーがここにあるのです。
大工仕事は王さまの血筋を誇る者が喜んでするような仕事ではなかったでしょう。そうした没落の道筋がこの系図によって明らかにされていきます。その大工ヨセフの子として、イエスさまが誕生したのだ、とマタイは伝えるのです。
素晴らしい王家の血筋を引いていると思っていた者でも、「叩けば埃が出る」と言われますが、重なれば重なるほど、次第に見えて来るものがあります。ごまかしもあるでしょう。
私たちの救い主イエスは、そうした私たちの営み、歩みの只中に入り込んで来てくださったのです。そして、どこまで入り込んで来られたか、と言えば、あの十字架の死に至るまで入り込んでくださったのです。
ですから、これから始まるマタイ福音書は、この王家没落の系図が、大工の子で終わるのではなく、その大工の子が十字架で犯罪者として処刑されていく、そうしたスト―リーなのです。
当時のユダヤの人の物の考え方からすれば、後に、この系図の16節と17節の間に、「ヨセフからイエスが生まれた、このイエスは死刑になった」と書き続けられてもおかしくないでしょう。
もしそうだとすれば、人目から一番隠しておきたい名前が、ここに出てきてしまった状態の系図だと言えるのです。でもこれが私たち人間の現実ではないでしょうか。
Ⅳ.系図と私たち
この後マタイは、その先駆けとして洗礼者ヨハネの登場を伝えます。ヨハネは、自分たちがアブラハムの血を受け継ぐ正当な民族で、「生まれながらのアブラハムの子孫で、他の民族とはわけが違う」と誇るユダヤ人に向かって、「よく聴くように! 神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになる!」 と断言したのです。
今日はキリストの系図を見て来ましたが、この系図はヨハネの言葉を使えば石ころだらけの系図でしょう。
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と立派なタイトルが付いていますが、蓋を開ければ、人間の罪、弱さや悲しみ、傲慢や妬み、そうした罪がドロドロ流れているような系図です。
でも、マタイは言うのです。神には力があります!と。この石ころがゴロゴロ転がる系図の中から、神が約束された通りに、アブラハムの子ダビデの子、イエスを救い主メシアとして起こしてくださったではありませんか。そして、その同じ御力をもって、あなたたちにも神は必ず御力を表わしてくださいます、と。
たとえ私のファミリー・ヒストリーがどれほど貧しく、汚されたものであっても、またファミリーだけではない、自分自身の歩みにどれほどの暗い現実や経歴があったとしても、その私を救い出すために、御子は飼い葉桶に降りてくださった。しかも、私の罪を贖うために、十字架の死にまで至る道を歩んでくださったのです。
私たちの喜びの源は、主イエスに愛されていることです。飼い葉桶に生まれ、十字架に命を捨てるほどに愛してくださっている、その愛によってです。そして、その愛とは赦しの愛です。
アドベントは、飼い葉桶の主を待ち望む時。このお方を私たちの心の、人生の、一番の中心にお迎えしたいと願います。お祈りします。