先週講壇
2018年12月9日
第2アドベント
松本雅弘牧師
イザヤ書9章2~7節
マタイによる福音書1章18~25節
Ⅰ.夢-困惑の中に
日曜日の前日に、私はよく夢を見ます。心理学によれば、夢は、人に隠しているもの、心の奥深くにしまい込んである願い、心配、課題が表れてくるものだと言われます。
ここに登場するヨセフも夢を見ました。彼は、それほどまでに大きな悩みを抱え、追い詰められていたからです。
Ⅱ.ヨセフが直面した危機
誰にも相談できず悩みを抱えていたヨセフでした。その悩みとは、婚約中のマリアが、ヨセフにとっては身に覚えのない子を身ごもっていたことです。
この時のヨセフとマリアとは婚約期間中でした。ユダヤの習慣によれば、この婚約期間中は、性的な関係以外は、ほとんど夫婦と同じような生活が許されていました。ですから、この期間に他の男性や女性と性的な関わりを持ったとすれば、結婚後の姦淫の罪と同じような重罪と見なされました。
そうした中で、マリアが妊娠していることが発覚したのですから、ヨセフはどれだけ傷ついたことでしょう。
彼は「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」(マタイ1:19)しました。ただヨセフの身になって考えるならば、理屈で整理できても、心が付いて行かなかったことだと思います。
マリアは愛する人です。彼女の存在は大きな喜び、生きがいになっていたことでしょう。そのマリアを失う。彼女のお腹に身に覚えのない命が宿ったのです。ですからヨセフにしてみれば彼女を失うだけでなく、彼女との間に今までのような愛を見出すことが出来なくなっていた。もう一緒に生きることができないのだという思いを抱かざるを得なかったのです。
そうした深い悩み、しかも、このことを誰にも話すことが出来ないという苦しみの中に置かれたのです。クリスマスとは、そうした人間の本当に深い魂の悩みの中で起こった出来事なのです。
Ⅲ.ヨセフへの召し
そのようなヨセフに、神は夢の中で御使いを通してお語りになったのです。「あなたは、この娘と離縁してはならない。きちんと自分の妻として迎えなさい」と。
言わば、その子を自分の子として引き受けるように。つまり身に覚えのないその子の父親になってくれるかと、神さまが天使を通して頼んでおられるのです。
ヨセフはどうしたでしょうか。彼はそれを引き受けていきました。この後、ヨセフの歩みを見ていく時に、神からの依頼、イエスの父親としての召命に一生懸命に生きていくヨセフの姿を、私たちは見るのです。
ヨセフからすれば、イエスの父親になることは神さまからの召命に応えることでした。そして、それは見方を変えると、神の協力者、神の同労者として生きることの決断でもありました。
福音書の記者マタイは、神は他でもないこのヨセフに、御子の父親としての大切な働きを委ねたと伝えます。ヨセフの側からすれば、思いもよらない深い悩みでした。しかし、苦悩という魂の一番深いところで、神はヨセフに語りかけられたのです。その一番深いところで神の御言葉を聞くことから、ヨセフの新しい歩みは始まりました。
そしてどうでしょう。これは私たちの人生にも当てはまるのではないだろうか。一人ひとりに与えられた人間関係、責任や役割、今一度、神からの召しとして受け取り直すようにと促されているのではないだろうかと思うのです。
Ⅳ.神さまの招きに応答する
聖書を通してヨセフの人物像に迫る時、ヨセフが登場する場面はごく僅かであることに気づきます。しかも、クリスマスに関連した場面以降、彼は福音書から姿を消していくのです。
多分、ヨセフは若くして召された人だったのでしょう。しかし、ヨセフは自分に託されたイエスの父親として、マリアの夫としての大切な召しを、不平も言わずに引き受けていった、そうした姿に私たちは感銘を受けるのです。
羊飼いや博士たちが押しかけて来ても、ヨセフは決して迷惑がりはしませんでした。むしろ、待ち望んできた救い主である息子イエスの誕生を、みんなと一緒に喜んでいる姿を私たちは見るのです。
そしてまた敬虔な信仰者として、息子イエスに対して、旧約聖書で決められている通りに割礼を受けさせ、神殿参りをしています。そのように親として、神に対し、また息子に対する務めをしっかりと果たしています。
エジプトへ避難し、再びパレスチナに戻ってくる、あの大変な砂漠の旅にしても、聖書を読む限り、大きな問題があったという記録を見つけることはできません。つまり、ヨセフは、家族を不自由や危険な目に合わせないように父親としての務めを立派に果たしたのではないかと思います。こうした父親ヨセフの姿が、何よりも、息子イエスさまに大きな影響を与えていきました。
あるとき主イエスは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子どもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ7:9-10)と語っています。
主のこの言葉は、主から見てヨセフがどんな父親であったかを雄弁に語っています。父親ヨセフは、パンを欲しがる自分の子どもに石を与え、魚を欲しがる子どもに蛇を与えるような父親ではなかったのです。
主イエスが父なる神を語る時、地上の父親の存在をもって紹介されたのは、それは取りも直さず、ヨセフが天の父なる神の義と愛を体現する者として幼いイエスさまの目に映っていたからでしょう。
ルカによる福音書に記されている受胎告知の出来事の数か月前、洗礼者ヨハネの誕生が、祭司ザカリアに伝えられた時、天使が語った言葉の中に、主イエスの先駆けとして誕生する、後の洗礼者ヨハネがいったいどのような人物で、どういう働きをするのかが告げられています。その中に、「父の心を子に向けさせ」(ルカ1:16)る、という恵みが起こると語られます。
そう言えば、旧約聖書は最初の人の堕落後の罪の姿を、カインがアベルを殺害するという「兄弟殺し」で始めます。つまり、人間の罪の姿を「家庭の崩壊」の中に見ているのが聖書です。
その聖書は、旧約聖書の最後の書「マラキ書」において、エリヤが再び来る時、「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」(マラキ3:24)ことで、家庭に平和と喜びが回復すると預言するのです。
私もヨセフのように父親としての召しをいただいている者ですが、これは結構、父親にとって大きなチャレンジなのではないでしょうか。ともすると私たちは、「子どもの心が父親である私の方に向かう」ことばかりを考えてしまうからです。
しかし聖書はまず、親の心が子どもに向かい、次に、初めて子どもの心が親に対して開かれていく。そのようにして本来の人間の姿が回復されていくと伝えています。つまり、神の働きは、まず私から始まる、ということです。父親ヨセフから始まったのです。
私たちは、子どもが変るのが先だと考えます。相手の人が変ってその後に私が変わると考えます。でも神のお働きは、まず私から始まるのです。
逆に、神を知っているはずのこの私が、神を知らない者のように生きていることが実は、家族にとって、また周囲の人々にとっての一番の躓きとなっているのです。
神さまの救いはまず私から始まる。この地域社会の回復は、まず神の民である私たち自身が取り扱わ
れるところから始まる、というのが福音のメッセージです。
ヨセフは立身出世をした人物ではありませんでした。英雄的存在でもない。ごく普通の大工さん、私たちと同じです。でもそのごく普通のヨセフが、神の御心を選択したが故に、主はヨセフを祝福し、ヨセフを通して大切な御業をなさったのです。
「選択」ということを考える時、人生は日々小さな「選択」の連続、言いかえれば「小さな決心」の連続だということに気づきます。
1つの選択によって、その後の人生が定まっていくだけでなく、家族や周囲の人々の人生にも大きな影響を与えることがあります。
今日の聖書箇所には、ヨセフにとっての大きな決心、イエスの父としての自分、マリアの夫としての自分を受け取る、あるいは受け取り直すという決心が記されています。
そして、ここにもう1つの選択、もう1つの決心があったことを、私たちは忘れてはなりません。それは「神さまの選択」、「神さまの決心」です。
その神の決心、神の決意についてカール・バルトは、「神はイエス・キリストにおいて、永遠に罪人とともにあることを決意された」と語りました。
今日ご一緒に見てきたヨセフの決心も、この神さまの選択、神の決意を知り、その愛に圧倒されて、マリアと共に生きることを選んだゆえの決心だったのです。
23節を見ますと、男の子の名はインマヌエルと呼ばれる、この名は「神は我々とともにおられる」という意味だと書かれています。
クリスマスとは、神が私たちと共に生き、私たちを生かして用いようとされる神の愛の選択、「インマヌエルの決心」の出来事だったのです。
神の側で手を差し伸べてくださっている。そして私の手を取って、神の同労者として招いてくださっている。私たちはその招きに応答するのです。
お祈りします。