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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

悲しみの中でのクリスマス

 

2018年12月23日
クリスマス礼拝
松本雅弘牧師
エレミヤ書31章15~21節
マタイによる福音書2章13~23節

Ⅰ.クリスマスの恵みのなか1年を締めくくる

クリスマスおめでとうございます。毎年のことですが、1年の終わり近くにクリスマスを迎え共に礼拝を捧げます。改めて、そのことは深い恵みだと思うのです。なぜなら、御子のご降誕の出来事を覚えながら、その光の中で1年の歩みを振り返ることができるからです。福音書の記者ヨハネは、クリスマスの出来事を「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)と表現しました。
1年を振り返る時、ある人にとっては苦しいこと、悲しいことが多く、まさに深い闇を行くような日々だったかもしれません。
私にとっては、共に信仰生活を、また教会の奉仕を担って来た信仰の友を、次々と天に送ったのが今年である、というのが実感です。
一方で、手ごたえを感じ、将来の見通しに明るさを覚える、そんな年として2018年を振り返っている方もおありかも知れません。
ただ、私たちの心の中にある一人ひとりの思いを超えて共通するのは、主イエスの光、恵みと憐みの中で1年間を生かされてきたという実感なのではないでしょうか。
クリスマスの主イエス・キリストは「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という名で呼ばれるお方なので、生活の全ての領域に、実は主が共にいてくださったのです。
信仰の目をもって見る時、そこにインマヌエルの主がおられた。そこに、光なる神を見出すことができる。そのことを今朝も感謝したいと思います。

Ⅱ.悲しみの中でのクリスマス

さて、私たちは今年、マタイ福音書を中心に、アドベントの季節を過ごしてまいりました。
先週の第3アドベントでは、主イエスの誕生に際して、喜んでいいはずのユダヤの人々は無関心、無感動であったのに対し、救いの枠外と考えられていた東方からやって来た異邦人、しかも星占いを職業とする者たちだけが、大きな喜びに満たされ、御子を礼拝したことを学びました。
その礼拝の翌日の月曜日、「心揺さぶられました」という件名で一通のメールが届きました。教会員の方からのメールです。
その方は、数年前、自分は大きな病を患った。病院の無菌室棟で、体力がゼロ、全く何も出来ない状態の中で、その時はじめて、神さまはこのままの私を愛してくださっている、ということを知らされ、それが実感として迫ってくる経験をしたのだそうです。そして、神さまの恵みの中、病が癒され、体力も少しずつ回復していった。ところが、時の経過と共に、その時、自分の心の中にあった神さまへの感謝の思い、感動が少しずつ薄らいで、こうして信仰が与えられていることが何か当たり前のようになっている自分を突きつけられ、気づかされた、と綴られていました。
説教の中で私は、ヘブライ人への手紙4章の御言葉を引用しました。
「その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」(ヘブライ4:2)
預言者が遣わされ、神の言葉を与えられる、という特権に与っていたユダヤの人々の現実です。
聖書に関する質問をされれば、たちどころに正解を述べることの出来る、律法学者、祭司長たちが、ヘロデ王の「メシアはどこに生まれることになっているのか」という質問に対して、即座に「ユダヤのベツレヘムです」と答え、しかも預言者ミカの言葉を正確に引用しながら丁寧に説明できたのです。ところが、それで御終いです。
彼ら律法学者たちは、〈これは一大事! 私たちの救いの問題だから、東の国からやって来た、それも占いの教師たちなどに任せておくことなどできない。さあ、すぐに行きましょう〉と言って立ち上がってもよかったのです。
ところが、立ち上がることも動くこともしませんでした。聞いた言葉が役に立たなかった典型的な例です。そうした彼らの姿を通して私たちは、もう一度、自らの信仰の自己吟味を迫られたことです。
ところで、ルカ福音書のクリスマスストーリーは、数々の賛美の歌や喜びの場面が繰り広げられ、喜びという色彩が強いように思います。それに対して、マタイが記した福音書は、ルカ福音書とは対照的に、喜んだのは東からやって来た星占いの先生たちだけでした。「イエス・キリストの系図」、「ヨセフの葛藤」、そして、占星術の学者たちから得た情報によって、ヘロデ王の心に不安がよぎる、と続きます。
そうした中で誕生されたイエスさまたちはどうしたかと言えば、ヘロデ王の幼児虐殺を免れ、エジプトへと避難します。そこでの難民生活も大変だったと思います。そして、再びガリラヤのナザレへの引っ越しです。次から次へと困難と危険に襲われます。しかも、どの出来事1つを取っても、幼子の成長にとってネガティブなものばかりです。
このように、クリスマスの出来事とは、喜びや明るさというよりも、悲しみや暗さに覆われているということを、改めて知らされます。このことを考える時、私は、その中に私たち人間の、イエスに対する拒絶というものがあるからなのではないかと思うのです。
それは、自分が自分の王様、自分が自分の主人として生きている、それが私たちだからです。ですから王の王、主の主として来られた御子を受け入れることに対して、私たちは当然、物凄い抵抗感を覚えるのです。
「拒絶」という視点でクリスマスにまつわる聖書の記述を見ていくと、一つの流れとして読めて行けるのではないかと思います。
生まれた時から、いやマリアの胎の中に宿る時から拒絶がありました。誕生してからは本当に激しい拒絶の連続です。エルサレムの人々をはじめ律法学者や祭司長たちの無関心、ヘロデに至っては、拒絶の究極である殺意を抱き、幼子の命を抹殺しようと実行に移すのです。
そしてもう1つ、聖書全体の視点から御子の誕生を見る時に、飼い葉桶の時から主イエスの歩みは苦難の僕としての歩みでありました。まさに飼い葉桶と十字架は初めから1つだったのです。
教会学校で、生徒たちが聖誕劇をやる場合、誰が何の役をするかでもめるということをよく聞きます。なかでも最後までの決まらないのがヘロデ王役だと言われます。ではヘロデは一体何をした人なのでしょう。
学者たちにだまされたことを知って、ヘロデ王は幼児虐殺というほんとうに残忍な行為に出たのです。実は、ヘロデは身内の者、我が子をも殺した人物として有名です。ヘロデに目をつけられたら殺されるのです。
ところが聖書は、これほどまでに残忍なヘロデの手から、幼子イエスは逃れることができたと伝えます。

Ⅲ.ヨセフを支えた神の御手の確かさ

勿論、そのために大切な役割を果たしたのがヨセフであったことを忘れてはなりません。幼子の命が守られるために、ヨセフは立派に父親としての召しに生きたからです。躊躇なく神に従い、愚直なまでに御言葉に従う、このヨセフの姿に、同じ信仰者として学ぶところが大きいと思うのです。
ただ、ここで決して忘れてはならないことがあります。それは、こうしたヨセフを超えて、彼をしっかりと導いた神がおられたこと。その導きの確かさがあったのだ、ということです。

Ⅳ.インマヌエルと呼ばれる主が共におられる

イザヤ書にこのような御言葉があります。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)
そんなことはない、と神は言われるのです。神の確かな御手、力強い確かな御腕が歴史を導き、私たち一人ひとりの上にも伸ばされている。その御手の導きの中で、ヨセフもマリアも、そして幼子イエスさまも守られたのだ。
そして私たち一人ひとりも例外ではない。この2018年を振り返ってみる時に、いや、今までの人生の歩みを顧みる時、そこには、神の力強く、そして優しい御手の導きがあったのです。
そのことを、信仰者である私たちは感謝をもって告白することが許されているのです。
マタイはそのことを私たちに伝ています。御子イエスの名が、「その名はインマヌエルと呼ばれる」/「神は我々と共におられる」(1:23)と記すのです。
神がインマヌエル、神は我々と共におられるお方ならば、私たちの人生における全ての出来事、私たちの生活の全ての領域、そこにも主イエスが共にいてくださるということです。
不意を突くような場面でも、実は神さまが共におられた。そのことを私たちは信じ、期待して生きることが許されている。いやもっと言えば、主イエスが共にいてくださるから、大丈夫だ、と私たちは聖書を通して、神から、そのようなメッセージをいただいているのです。
私たちは、その御言葉の約束を、信仰によって自分自身に結び付けるようにして聴かせていただきたいのです。
どのように激しい苦痛があっても、悲痛なことがあっても、神が、主イエスにおいて私たちと共にいてくださる。だとすれば、すべてのことを神さまがご存じであり、万事が相働いて益となるように導いておられる。(ローマ8:28)そう確信してよいということです。
インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まっています。
来る2019年も、都エルサレムから主イエスを締めだしたユダヤ人のようにではなく、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えして、主が始められた、闇に光を灯す働きのために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと願います。お祈りします。