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主日共同の礼拝説教集

高座教会礼拝堂

成長させてくださる神 ―成人のお祝い

2019年1月13日
松本雅弘牧師
詩編84編1~13節
ルカによる福音書2章41~52節

Ⅰ.ユダヤ社会における成人のお祝い

今日は11時礼拝において成人のお祝いをいたします。ところでイスラエルにも成人式があり、男性の場合は13歳でした。
今日の聖書箇所には、イエスさまが成人式を迎える前年に過越祭に行き、その帰りに起こったエピソードが紹介されています。

Ⅱ.成人式をひかえた人の子イエスの心の中の葛藤?

心理学者エリクソンは、人間の成長を8つのライフサイクルに分けて考えます。
成人する、すなわち大人になるのは、ライフサイクルの第5段階で「アイデンティティーの確立」、つまり自分が何者で、何をしたいのかが分かることなのだと説明しています。
私たちは、イエスさまの神性を強調するあまり、そのお方の人性を軽視することがあります。しかしイエスさまはスーパーマンでなく私たちと同じように、マリアに乳を飲ませてもらい、ヨセフの庇護のもとでしか生きていけない限界を持つ人間として成長されました。
ですから、成人する者として誰もが経験する、自分は誰で、どのような存在で何をしたいのかという問いの答えを求めながら歩んでいたのが、この時期のイエスさまだったと考えられます。
この時期の若者にとっては、子どもの頃の絶対的なモデルであった両親の姿の中に弱さや欠点を見出し、大人であるはずの両親の言動に、子どもじみたものを感じて失望感を味わう経験をするものです。
さらには、社会との接点も拡がり始め、親や親戚以外の大人との出会いも増えるので、その結果、今までの大人像自体が崩れていきます。そうしたプロセスを経て次第に人間として自立していくわけです。
それが成人式をひかえた人間イエスさまの心の葛藤であり課題だったのではないかと思います。そのイエスさまが自分を探し、見出した両親に対して、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)と答えたことが記されています。
ここで、イエスさまは神殿を指して「自分の父の家」と呼んでいます。この時イエスさまが両親に訴えたかったのは、「神殿こそが自分の父の家なのだ」ということ。「自分の父は神であり、自分は父の子なのだ」ということなのではないでしょうか。
「青年期の課題」という切り口で言い直せば、このイエスさまの発言は、神殿で神に礼拝を捧げ、祈るなか、1年後に成人式を迎える若者として、「自分はいったい何者なのか」という「青年期の課題」に対する答えを発見した時の発言のように聞こえて来るわけなのです。
アドベントの季節に共に見てきました。ヨセフも、最初はマリアの妊娠の事実を受け入れられずに苦悩した様子を聖書は伝えています。人口調査のため、ベツレヘムにやってきましたが、そこはヨセフの故郷であったにもかかわらず、人々はヨセフに対し物凄く冷淡でした。
ある聖書学者は、「こうした人々の冷たさの原因は、すでにベツレヘムにまで届いていた、マリアの妊娠をめぐる噂のせいだったかもしれない」と解釈します。
160キロ離れたベツレヘムにおいてそうだとしたら、実際に生活をしていたナザレではどんなだったのでしょうか。
ヨセフですら最初は受け入れられなかったほどですから、近所の人たちがイエスの出生の真実を理解したかどうかは怪しいものです。誤解した人も多かったと思います。ナザレ村では、マリアの妊娠はスキャンダルとして受けとめられたのではないかと言う学者もあります。
そんな噂を、仮に少年イエスさまが知ったとしたら、イエスさまの心にどんな動揺が生じただろうかと想像してしまいます。
私たちの中にも、複雑な子ども時代を過ごしてきた人もいることでしょう。生みの親と、育ての親が違ったり、実の親でもその人から十分な愛情を注いでもらえなかった。場合によっては虐待を受けた経験も、あるかもしれません。
ヨセフは愛情深い父親でした。彼ら親子の関係は良好だったでしょう。ただ、そのヨセフが実の父親ではないと知った後、大工仕事に精を出すヨセフを見た時に、ふと「いったい誰が本当のお父さんなのか」と、心の中に問うことはなかったでしょうか。
成人式を1年後にひかえたイエスさまにとって、この問いこそが、切実な問い、場合によってはかなり深刻な問いだったのではないでしょうか。

Ⅲ.父なる神との関係の中に自分を位置づける

この時イエスさまは両親の元から失踪するように神殿にこもり、御前に心を注ぎ出したと思います。
その結果、「自分の本当の父親は神さまなのだ」と深い意味を悟ることができた。それがこの「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」という発言となって表れたのではないでしょうか。
そして、この経験が青年期の課題をクリアする出来事として、私たちに伝えられているのではないでしょうか。
私たちも完璧な親によって育てられたわけではありません。実の父親や母親から、良いもの、また場合によっては悪いものも全て引き継いで今の自分になっている。しかも親との関係において、様々な葛藤やトラブルも経験します。そのため「あんな親に育てられたからこんな自分になってしまった」という思いが心を支配することもある。その結果、なかなか親離れできず自立できないという現実があるのではないでしょうか。
どうしたらよいのでしょう。答えはイエスさまに倣うことです。この時イエスさまは神殿で父なる神に心を向け礼拝なさったのです。
同じように、私たちも礼拝を捧げ、語られる御言葉の前に、肉親を超える神という存在との関係から、今の自分を受け取り直し、神との関係において私自身を位置づけることしかないのです。
神が私をどのように見、受けとめておられるのかを求めて行く時に、イエスさまにとって、それが大人になる上での決定的な経験となったように、私にとっても青年期の課題をクリアし、本当の意味での成人式となるからです。

Ⅳ.「子どもは贈り物」

ところで、今日は、親御さんも大勢見えておられます。おめでとうございます。
今日は、成人のお祝いということで、子どもの側から成人式のことを考えて来ましたが、最後に親の側からの受けとめ方について少しだけお話して終わりにしたいと思います。ヘンリ・ナウエンの「子どもは贈り物」という言葉を贈らせていただきたいのです。次のような文章です。
“親であるとは、見知らぬ旅人を気前よくもてなすようなものです。自分の子どもが親の私たちに似ていると感じる一方、あまりにも違っていることにいつも驚かされます。彼らの知的能力、芸術的才能、運動能力に喜ぶこともあれば、学ぶのに遅く、協調性に欠け、奇妙なものに興味を持つことに悲しんだりします。さまざまな面で、私たちは子どものことを知りません。
私たちは、自分の子どもを創造したのでもなければ、所有しているのでもありません。このことは、私たちにとって福音です。すなわち、子どもの問題すべてに責任があると、自分を責める必要はないし、子どもの成功を自分たちの力だと誇るべきでもありません。子どもたちは神からの贈り物です。
私たちが彼らのために、心の自由と体の自由を得て成長するための、安全で愛に満ちた場所を提供するようにと神から与えられたのです。子どもたちは見知らぬ客人のようなものです。もてなしを求め、よき友となり、その後、再び彼ら自身の旅を続けるために去っていきます。まさに贈り物であるがゆえに、計り知れない喜びと、限りない悲しみももたらします。
よい贈り物とは、諺にあるとおり、「二度与えられる」ものです。私たちは、受けた贈り物をふたたび与えなければなりません。子どもたちが勉学のために、あるいは仕事を探したり、結婚したり、どこかの団体に所属したり、あるいはただ独立しようとして家を離れるとき、悲しみと喜びが共に訪れます。「私たちの」子どもは、本当は「私たちのもの」ではなく、他の人への真の贈り物とするために「私たちに与えられた」ということを深く悟らされます。
子どもたちに自由を与えるのは―とくに暴力的で、獲物を探し求めているようなこの世では―とてもむずかしいことです。考え得るあらゆる危険から子どもを守りたいと切に願います。しかし、それは不可能です。彼らは私たちに属しているのではなく、神に属するものだからです。ですから、神への信頼を表わすもっとも偉大な行為の1つは、彼らを自分の選択にまかせ、自分で道を見つけ出させることです。”
私は、この文章を読みながら、子を持つ親として、神が願う子どもとの関係、距離感を正されたように思います。
神からの贈り物として、それもしばらくの間、旅を共にする者同士である。この距離感は、聖書が私たちに与えている知恵なのではないでしょうか。お祈りします。