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主日共同の礼拝説教

復活の主の証人

2019年1月20日
松本雅弘牧師
エゼキエル書37章4~10節
使徒言行録1章12~26節

Ⅰ.聖霊の力を受けると

新年礼拝の時、主イエスとヘロデ大王を比較しながらお話しました。ヘロデは神との縦の関係を持たない、それゆえ横との競争において自分のアイデンティティを確認せざるを得ない生き方をしていた人です。言わば「何をしたか/何ができるか」によってその人の価値は決まるのだという物語を生きていた人でした。ヘロデは才能にも恵まれていたので、結果的に、今でも聖地旅行者が訪れる様々遺跡を残しています。
それに対して、主イエスは当時の人々が目を見張るような建造物を建てたのでも、巨万の富を築いたのでもありません。
教会の働きを評価する時に、よく「ABC の物差し」で評価されます。Aは礼拝出席、英語で「attendance(アテンダンス)」の頭文字のAです。Bは建物、「building(ビルディング)」の頭文字のB、そしてCはお金、「cash(キャッシュ)」の頭文字のCです。
毎週どれだけ礼拝出席がある教会なのか、礼拝堂を含め、どれだけの施設を有しているのか、そして財政規模はどのくらいなのか、といった「ABCの物差し」です。
この物差しからしたら、ヘロデは成功者ですが、主イエスは成功者とは認めがたいのです。でも専門家は、主イエスが大切にしていた物差し自体が違うことを指摘します。主イエスの関心事はABCにあったのではなくてDにあった、Dとは弟子、英語の「disciple(ディサイプル)」のDです。ある学者は、公生涯の90%の時間や労力を12弟子に惜しげもなく投資した。それが、主イエスがなさったことだというのです。
ただ忘れてならないのは、ご自分のエネルギーや時間の殆どを12弟子育成につぎ込んだ結果、12人が本当に素晴らしい弟子になったかと言えば、残念ながらそうではなかったという事実です。
逆に90%の労力を注いだ結果は、惨憺たるものでした。あの十字架の場面、主イエスに愛し抜かれたはずの弟子たちは、一人残らず主イエスを捨てて逃げてしまったのです。
これこそが3年にわたって主イエスと共に生活をし、主から特別訓練を受けた彼らの現実だったということです。それが、使徒言行録の前編にあたるルカ福音書の結末です。でも、幸いなことにそれで終わりませんでした。
福音書の続編、使徒言行録を読むと、そのことが分かります。主イエスは続きを用意しておられたのです。
それが、使徒言行録1章4節に出て来る、復活の後、イエスが弟子たちに告げた約束と命令です。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。
そうです。聖霊です。公生涯の全てをかけて弟子たちを愛し、全てを与え尽くした主イエスが最終的になさったこと。それはご自分の霊をもって弟子たちを満たすことでした。
このことこそが、昇天していく主イエスが最後になされた、そして最高のプレゼントだったのです。
そして、この聖霊というプレゼントが最高なのは、2千年後に生きている私たちにも全く同じ聖霊が与えられ、私たち1人ひとりの心に宿っておられる。高座教会という、この主にある交わりの只中に臨在しておられる。生活の全ての領域で、今もまた、御子の霊である聖霊なる神さまが生きて働いておられるということです。
前置きが長くなりましたが、今日の聖書の箇所を見る時、主イエスの昇天から聖霊降臨までの期間、弟子たちがなした、注目すべき1つの出来事があったことが分かります。
それは離脱したイスカリオテのユダに代わる使徒を選び出したということです。今日は、この点について御言葉から学んでいきたいと思います。

Ⅱ.欠員に至った原因としてのユダの裏切り

12弟子から離脱してしまったユダのことを少し思い起こしてみると、聖書を読む限り、ユダは始めから裏切ろうとしていたのではないように思います。
彼もまた他の弟子同様に、主イエスの徹夜の祈りによって選ばれた使徒でした。ペトロも「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(使徒1:17)と語っています。
主イエスは、ユダを「裏切り者」となるように選び育てたのではなく、使徒の務めを果たせるようにと、徹夜の祈りによって選ばれたのです。その証拠に、主イエスは最後の最後までユダを愛しておられたことがわかります。
では、何故、ユダは主イエスを裏切ったのでしょう。この点についてペトロは「自分の行くべき所に行くために離れてしまった」(25節)と語っています。あくまでも自分の意思で「そちらの道」を選んでしまったのです。主の御心ではなく「自分のしたいこと」を選び続けてしまった。ペトロはそう説明しているのです。

Ⅲ.欠員を補充する理由-a.交わりの成長への備え b.神の言葉による命令

その結果、ユダの離脱によって12使徒に欠員が生じました。欠員を補充する理由が述べられていきます。
理由の1つは、近い将来起こるであろう成長への備えということです。
主イエスの約束によりますと、今後、多くの者たちが洗礼へと導かれていくことになる。この時すでに、エルサレムの信仰共同体に変化が起こり始めていることが分かります。「百二十人ほどの人々が一つになっていた」(15節)とあります。
最初はせいぜい2、30名の交わりだったでしょう。でも15節の時点で120名の群れへと変化しているのです。
主イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と話され、信仰の成長に欠かせないのが御言葉の糧だと教えられました。この時、群れが豊かな愛の共同体へと育まれていくためには御言葉の糧が必要となる。その務めを担うのが使徒でした。
今後、エルサレムの群れの人数が増えるために、群れを、御言葉をもって牧会するために召された使徒の欠員を補充しようと考えたのです。
ある村で、雨乞いを祈る祈祷会が行われた時に、集まった人のほとんどが傘を持って来なかったという話があります。つまり祈るには祈るが、最初から雨が降るはずがないと思っている。そうした村人の姿は、何か私たちの姿と似ているように思います。村人にとっては傘を持ってくることが恵みの雨に対する備え、信仰の行為でした。
エルサレムの兄弟姉妹にとっては、まさにユダの欠員を補充することこそが、この時、彼らが示された、恵みの雨に対する備えの行為だった、ということなのです。

Ⅳ.欠員補充の過程に見られる弟子たちの信仰

では具体的にどのようにしてユダに代わる使徒を選んでいったのでしょうか。
まず、ペトロが使徒の条件を2つ提示しているのが分かります。1つは、主イエスの公生涯の間、直接、生活や行動をともに経験した者であること、そして2つ目は実際に復活の主イエスとの出会いを経験した者であることという条件です。
その結果、該当者が2人いることが分かりました。バルサバとマティアです。次に、この2人から1人を選ぶ時、一致した信仰が働いた。それは、祈ってくじを引くという行動として現れたのだとルカは伝えるのです。
注意しておきたいのですが、この時、ペトロをはじめ他の弟子たちは2人のうちどちらを選ぶかを決めかねてくじを引いたのではありません。
箴言に、「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである」(16:33口語訳)とあるように、ふさわしい人物を決定するのはあくまでも神であると彼らは信じていたのです。ですから彼らは主に祈り、主がすべての人の心をご存知であることを告白し、主ご自身がこの2人のどちらをお選びになったかを、お示しくださいと祈ったのです。このようにして弟子たちは、1つの思いになって、祈りつつ主が選んでくださったマティアを受け入れていったのです。
主イエスが昇天し、聖霊降臨が起こったペンテコステまでの期間、計算しますと10日間ですが、その間、弟子たちは心を合わせて祈りに専念しました。そして、主はその祈りに応え、主にある交わりの輪を拡げてくださった。そして心を一つに祈りに専念するなか、近い将来、聖霊が降り、エルサレム教会の中に新しい兄弟姉妹が加えられることを見越して、群れを御言葉によって牧会する務めを担う使徒を、主ご自身が立ててくださったのです。
わずか10日間に彼らは、いくつもの変化に対応してきました。そうした彼らの背後には一致した信仰がありました。
私たちも主の日の礼拝を大切にし、日々聖書の言葉に親しみ、そもそも、なぜ神の独り子が飼い葉桶にお生まれになったのか。なぜ十字架で命を落とさねばならなかったのか。なぜ復活があり、聖霊降臨があったのか。
そして、なぜ、ここに高座教会が誕生し、その肢として私たちが繋がれているのか。そこには神さまの深い意図があることを覚えたいと思うのです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)
お祈りいたします。